ふと思い出した、山梨 から帰りの車中でのお話。
途中から幼稚園に通うくらいの男の子とおかあさんが乗り込んできたですが、
しばらくして、何を思ったか、その男の子がおかあさんに
「たんぽぽは綿毛にならないんだよ」と教えている(本人は教えてるつもりでしょう)。
幼稚園の先生にでも教わったか、絵本ででも読んだのか、
「たんぽぽは昼間は開いていて、夜になると閉じてしまうの。だから」と。
なるほどたんぽぽの花は夜になると閉じてしまうとは確かにそのとおりですが、
(といっても、自身、どこでどのようにそのことを知識化したかはもはや判然としません…)
その男の子によると、「(昼間は開いて、夜は閉じてしまう)だから、たんぽぽは綿毛にならないのだ」
と繋がるようなのですが、ここのところは「?」でありますね。
おかあさんも「それなら、何が綿毛になるの?」と(やんわり)詰め寄ってしまったり。
かの男の子の「だから、こうなる」の部分は、
残念ながら「だから」という説明にはなっていないわけですが、
落ち着いてよおく考えてみると、こんなふうにも受け止められると思ったことが。
男の子が言っているのが「『たんぽぽの花』は綿毛にならない」であるとすれば、
「んなこたぁ、ないだろ。綿毛になるじゃん」と突っ込みたくなりますけれど、
正確に正確に言うならば、「たんぽぽの『花』は綿毛にならない」とすると、
これはその通りなのではないかと。
「なのではないか」と思うのは実は自信のない現れであって、
日常的には「黄色い花が咲いているのも、たんぽぽ」、
「まあるく綿毛にくるまっているのも、たんぽぽ」と理解していながらも、
花の咲いているたんぽぽと綿毛の状態になったたんぽぽとの間の経過時間に
「いったいたんぽぽはどうなっておるのか」を個人的に説明できる材料を持ち合わせていない…。
さすがに黄色い花を構成する花弁(?)の一片一片が
よもや綿毛にひとつひとつに変身するのではあるまいと思うからこそ、
「たんぽぽの『花』は綿毛にならない」とは「その通りなのでは」と思ったものの、
確証がないわけです。
ということで、帰宅してから(というより思い出して、これを書き出す直前に)ネット検索してみれば、
花が枯れて、綿毛となるに至るプロセスを捕らえた映像があったりするのですなあ。
早回しで時間短縮を図っていますから、肝心なところがはっきり見えるわけではないながら、
先に触れたとおり、たんぽぽは昼夜の開いたり閉じたりをひと頻り繰り返した後、
(これはある程度の時間の長さによるのか、それとも受粉が行き渡ったてなことなのか)
ぐぐっとすぼんだかと思うと、いかにも「もののあわれ」を思う枯れた色合いになってきますですね。
その間、かつての花はくたくたになって縮こまるといいますか、
下から伸びてきた後の綿毛に相当するものの上にくたくたにちっちゃくまとまってしまうという。
言ってみれば「セサミ・ストリート」に出てくるバートの髪の毛状態といいますか。
花の残骸はこのくらいになると、もはや一陣の風によって吹き払われてしまったり、
そうでなくても、綿毛部分が十分に育っていよいよまあるく開く段階ではその勢いで
振り落とされてしまったりするわけで、こうなるとすっかりたんぽぽは綿毛そのものであります。
ですから、咲いていた花が変化して「あらら、綿毛に?」ではないのですから、
「たんぽぽの『花』は綿毛にはならない」わけでして、花の下から綿毛が伸びてくる、
それによってすでに枯れ果てた花はあたかも脱皮のように脱ぎ捨てられる…てなことでしょうか。
こんなふうなくだくだしいことをかの男の子が説明していたら、おかあさんも納得するとともに、
「息子の将来は植物学者か?!」てな思いを巡らしたりしたかもしれませんですが、
あいにくと自分より先に下車していきましたので、話の続きは藪の中ということに…。