1590年(天正十八年)、館林十万石の領主としてやってきた榊原康政

館林城を本格的なものとすべく城郭の拡張を行ったのはもとより

城下町の整備にも取り組んだそうなのですね。
館林の町の、今につながる原型はその際に形作られたものでもあるようです。


榊原家は1643年、三代目忠次の代に白河へ転封されますが、
その後館林が脚光を浴びることになるのは1661年でしょうか。
徳川三代将軍家光 の子が25万石に拡大された石高をもって館林城主となるという。


これが後の五代将軍・徳川綱吉 でありまして、
将軍となるまでのおよそ20年間、「館林宰相」と呼ばれていた…ということなんですが、
基本的には江戸住まいをしており、領地に立ち入ったのは日光東照宮に詣でた折の一度きりとも。


ただし、お城としては将軍の子が入るに相応しく立派なものが求められたのではないかと。
やがて綱吉が将軍となるに及んで、館林は綱吉の子・徳松が後を継ぎますけれど、
わずか5歳で亡くなってしまったことから、館林は幕府直轄領となり、城は破却されてしまったそうな。


「跡取りが夭逝してしまったという縁起の悪さを払うためにお城は打ち捨てられてしまったのではないの」
てなことを地元の方から漏れ聞けば、「なるほどね」と思わなくも無い。


24年の後に幕府直轄領を離れ、館林はお殿様が復活しますが、
何度か領主を代えながらも、館林城の再築城が続けられていったのだそうな。
そして迎えた幕末、当時の館林城はこんなであったろうという再現ジオラマが

地元の人たちよって作られておりました。


幕末の館林城ジオラマ


手前側に広がる城沼を天然の濠とする要害の地に築かれていたようすが窺えますが、
今では本丸のあたりは館林ミュージアムクォーター (勝手な命名ですが)となり、
二の丸のあたりには市役所、三の丸跡には芸術ホールが造られてたりしてまして、
往時の姿を偲ぶことは難しい状況下と。


何でも1874年(明治7年)の火災によって大部分が焼失してしまい、
跡地はそれなりに有効活用されてきたということなのでしょう。
辛うじて遺構を偲ぶとすれば、こうしたあたりでしょうか。


館林城本丸土塁の名残り


ちょうど向井千秋記念子ども科学館の裏手にあたる広場に見られる本丸土塁の名残りです。
下の平面図では、右側の赤丸の部分になりましょうかね。


館林城平面図


そして、もそっとお城らしいとなると、平面図で左側の赤丸にあたる三の丸土橋門、
これが1982年の発掘調査結果をもとにして復元されておりました。


館林城三の丸土橋門


一旦は幕府直轄地として廃城となった後、復元を施され続けた頃には
すでに確固とした幕藩体制となっていたでしょうから、そうそう戦が起こることもなさそうながら、
丸三角四角と様々な形に穿たれた狭間がやはり城は戦闘上の施設であるなと思わせるところです。


土橋門の内側から見た狭間


ところで、先に記しましたように館林城は明治になって火災で焼失したのであって、
会津鶴ヶ城のように戊辰戦争でぼこぼこにされたわけではない…ということはと調べてみれば、
幕末の館林藩は官軍に与して東北へと転戦したのであるそうな。


館林藩最後の藩主となった秋元家は関東移封後ながら徳川家康に仕えて、
大阪の陣での勲功から槍を与えられた秋元長朝以来、譜代の扱いを受けていましたけれど、
最後には幕府を見限ったということでありましょうか。


もっとも館林を皮切りに転封を重ねた榊原家でも、
最後にたどり着いた越後高田藩では官軍に恭順の意を示したということですので、
このあたり(もちろん幕府に与するを良しと言っているわけではないものの)
ご時勢でもあったというべきなのでしょうか…。