あまり見ないと言いつつ、たまたまながらも「サロゲート
」、「トランセンデンス
」と
SFに類する映画を見たこともあり、SFづいているわけではありませんけれど、
図書館でもって「有名どころだけど、一度も読んだことがないな」と借りてきたのが
SF界の大御所のひとり、レイ・ブラッドベリの一冊でありました。
「バビロン行きの夜行列車」というタイトルで、この表題作を含む21編の短編集でしたですが、
読み始めて「どうもこりゃSFではなくって、不条理だぁね」と。
語り始めとしてはミステリー風味を帯びていて「どうなるんだろ…」と引っ張られた挙句に、
根本的にミステリーと異なるのが論理的な解決が示されずに放りっぱなしにされた感じ。
ここでの余韻をどう受け止めるかが好き嫌いの分かれ目でありましょうね。
個人的にも(こういう小説だという)心の準備ができていなかっただけに、
最初の方ではこの余韻を受け止めかねて、また短編集ということでどんどん読み飛ばすと
後には何も残らない…てなことに陥ってしまいました。
ですが、一編読み終えたらすぐさま次に行かず、
少々時間を置いてという読み方をしてようやっと馴染み始めたといいましょうか。
8編目の「目かくし運転」に至って雰囲気をつかんだ感じでありましたですよ。
と、この「目かくし運転」ですけれど、どうやら本書の原題は「Driving Blind」、
つまりこれがオリジナルなタイトルなのでしょう。
ま、日本語訳の短編集としては「目かくし運転」よりも「バビロン行きの夜行列車」の方が
キャッチーだと出版社が考えたのでしょうけれど。
それはともかく、この「目かくし運転」から先には
子供時代や青春期をフラッシュバックさせるような話が
「いとしのサリー」、「なにも変わらず」、「土埃のなかに寝そべっていた老犬」と続いていたのが
とっつきをよくしたものとも思われます。
それにしても、この短編集はブラッドベリが77歳にしてものした作品集だそうですが、
みずみずしさを描き出すのに歳は関係ないと言うのか、むしろ老練のなせる業なのか…。
酒場でふと耳にした曲、「いとしのサリー」。
何十年か前にかつて付き合ったことのあるサリーを思い出したチャーリーは
「今、彼女はどうしているだろうか」と気になり始めるのですね。
功成り名を遂げたチャーリーとしては、自分と結婚していれば幸福になっていたかなと
告白することのないまま別れたことを思い返したりしながら、
何とかかんとかサリーの居場所を探し出すわけです。
「今さら、会って何を話そうというのだ…」と思いつつ、調べた住所へと向かうチャーリー。
果たして扉が開くと、チャーリーの目の前には年月を経ても昔の面影を残すサリーの姿が…。
その後の展開を書いてしまっては野暮になるとはいえ、大方の想像が及ぶところではなかろうかと。
ではありながらも、読後感は微かな疼き、火照り、痛みを負った毎日であったような「あの時代」を
思い出していたりするわけですね。
卑近な話にするには、ふと耳にした曲が「いとりのエリー」だったと考えたらどうでしょう。
文字通り「エリー」に類する女性の名前ばかりでなく、
その時期に曲を一緒に聴いた誰かと思い出すのであってもいいわけですが、
おそらくはチャーリーの思いや行動(実際にそうした行動に出るかは別としても)は
誰にも何かしら「思い当たる」ようなことがあるんではなかろうかと。
この点に関しては大きな地域差などは無いのかもしれませんですね。
ところで、21編のうち最もSFっぽいのが「ミスター・ペイル」でしょうか。
地球から火星へと向かう宇宙船の乗客(もやは宇宙船はバスみたいなものか)で急病人が発生。
ですが、どうみても急病というよりも死に瀕している状態である様子で、
「急」であるのはこの病人が宇宙空間を進む宇宙船に「急」に現れたという点なのですね。
いったいどこから乗ったというのかも分からず、名前を尋ねても「ペイル(青白い)」と言うだけ。
そして、自身の命が尽きようとしているときに「地球は自分のものだった…」と呟き、
「そろそろ時間だ」と宣告するや、窓外に見えていた地球が爆発炎上してしまった…。
先にも書きましたように、こうした状況にあって、論理的な解決には至らないわけですが、
「青白い」と「地球」という言葉が並んだだけで、十分に想像が可能ではありますね。
もっとも、作者が意図したことと合致しているかどうかは別問題で、
それぞれに解釈できますし、そうしていいのだと思うところです。
そう考えるとこの短編集は、抽象画を目の前にしたときにしばし佇んで、
ああでもない、こうでもないと考える(考えたところで必ずしも正解を導く必要はないわけですが)、
その考えてる時間をこそ楽しむてな例えができるかもしれませんですよ。
そうそう余談ですが、「木のてっぺんの枝」という一編にこんな会話が出てきました。
「ところで、どこへいこうとしてた?」
「美術館さ。列車の乗り継ぎで二時間も空いてしまってね。こういうときはいつも美術館へいって、あのスーラの絵をみることにしてるんだ」
舞台はシカゴ。そこで、多少なりとも空き時間ができると
スーラ
の「グランド・ジャット島の日曜の午後」を見に行くというのも、
小説の中に点景として取り入れられる自然なことなのだな…と思ったりしたのでありました。
