12月頃、CSのドキュメンタリー系チャンネルでは、クリスマス時期ということなのでしょう、
いろいろと聖書絡み、キリスト教絡みの番組 が放送されるのでして、
確か去年の今頃にもそうした番組のあれこれで見たところの話をしましたですが、
今回もまた手を変え品を変え的な内容の番組が多々ありました。


中には、イエスが死んだ実像に迫るもの(Discovery Channel「キリスト十字架はりつけの謎」)として、
実際に生身の人間を十字架にはりつけにして(もちろん釘打ちはなく、縛りつけてですが)
心拍数なんかのデータを取りながら、どのくらいはりつけ状態で耐えられるのか…てな実験をしている
番組もありました。


そうしたことから分かることは、教会で一般的に見かけるイエスの磔刑図は誤りであって、
両腕は十字架の横木に上から絡ませるような形で釘打たれていたようでありますね。


磔刑のそもそもは見せしめであるところから、長い時間を掛けて苦しむ様を見せつける必要があり、
そう簡単に亡くなってもらっては困るわけですが、一般的な図像のようでは両肩はあえなく脱臼し、
前にうな垂れた形の無理な姿勢は呼吸困難を招いて、とても長持ちしない…とか。


よくまあ、こんな実験をするものだと思ったりするところですけれど、
いろんな実験の多くは聖書に書かれていることが本当かどうか…てなことを検証したりしてますね。

つまりは聖書にどれだけ信憑性があるかといったような。


ですが、たびたび書いておりますように、
歴史的事実と思われるようなことも実は勝者の側からの叙述でしかないという、
作為でできあがっていたりすることもあるとなれば、聖書にしてもそうしたところがないとはいえない。

実際に福音書によって異なる記述があったりすると言われておりますし。


そうした部分を改めて強く意識することになりましたのが、
このほど読み終えた本でもって…ということになりましょうか。
「ユダ 烙印された負の符合の心性史」というものであります。


ユダ - 烙印された負の符号の心性史/中央公論新社


イスカリオテのユダと言えば「裏切り者」の代名詞と化していることは
非キリスト者が多い日本においても言えることではなかろうかと思いますけれど、
どうしてそうなってしまっているのか、どうしてそうなってしまったのかといった辺りにも
触れる内容が書かれておりましたですよ。


冷静に考えてみると…ですけれど、イエスの教えというのはそもそもユダヤ教の枠内にあって、
ユダヤ教のそれまでのあり様に対して「それではいけんのではないか」という、
いわば宗教改革的なところがあったわけですね。


ですから、新たな宗教を打ち立てるというつもりのない初期のキリスト者にとっては
あくまでユダヤ教の枠内にあることの安心感といいますか、座りの良さの必要性から
例えば「マタイによる福音書」などでも、イエスに関わる事績の数々は
旧約聖書に記された預言の結実であるという整合性が強く意識されて書かれていると。


これに対して、最も成立時期が遅いとされる「ヨハネによる福音書」ではWikipediaに
「他の3つの福音書よりも鮮明に神の子たるイエスの姿をうかびあがらせている」とありますように、
イエスはユダヤ教の宗教改革者というよりも自立した神と一体のもの=キリストとしての認識が
強まっているのではないですかね。


これはイエスの教えがキリスト教として徐々に確立していくとともに、
選ばれたユダヤの民だけの宗教から脱していったことと関わっているのでありましょう。


で、イスカリオテのユダですけれど、そもそもを考えてみれば
イエスがユダヤ教の改革者から転じてキリストになっていった前提として
ユダの裏切りを必要としていたということになろうかと。


もしユダの裏切りなかりせば、イエスの磔刑は無く、その死も復活も無く…となって、
キリストの誕生(キリストとしての再生)は無かったのやもしれません。


ですが、いったんキリスト教なるものがユダヤに留まらず

広い世界を相手にした普遍的な宗教となっていったとき、
ユダの裏切りはイエスを磔刑するよう求めたユダヤの民衆の言動と一緒になって(同一視されて)
ユダヤ人迫害への道をつけるものともなっていったようでもあります。


この辺りの叙述は、ローマ総督ピラトがイエスを磔刑に処したわけではないという、
ローマ帝国内で受け容れられるよう配慮したものになっているとも言えそうでもありますね。


本の内容はこのような上っ面をなでた話ばかりではないわけですが、
宗教に関してあまりに一貫性や整合性を考えすぎるのは無駄骨を折るようなところがあり、
むしろ「この部分の考え方は真摯に受け止めるべき」とか「あの言葉は普遍的に通ずるものがあるね」とか
部分部分をいいとこ取りして、人の生き方に活かせばいいのではないかな…と思うでありました。
(ま、無宗教者であればこそ、言えることなのかもしれませんが)