中学の頃でしたですが、「映画ってのは面白いなぁ」と突然に目覚めたところから
やおら映画館通いが始まったのでありました。
(とっても、中学生の小遣いでそうそう映画館には行けず、もっぱらTVで数を稼ぎましたが…)
その当時、お気に入りに「松竹セントラル」という映画館がありましたですが、
(東銀座というか、築地というか、東劇の向かいで、今はオフィスビルになっているもよう)
これは自宅近くのバス停から東京駅南口行きという、なかなかに乗りでのある路線の都バスに乗ると
映画館の目の前がバス停で便利だったということと、子供心に銀座そのものは近寄りがたくもあって
ほどよく離れていたということになりましょうか。
で、このバス路線でありますが、住まっていた江東区からは永代通りをひた走って、
そのまま真っすぐ直進すれば東京駅に着いてしまうにもかかわらず、
永代橋を越したところでやおら左折してしまうという。
鉄砲洲、明石町、築地 、東銀座、銀座、有楽町…とまあ、大きく迂回して東京駅にたどり着くわけですが、
永代橋から折れてメインストリートから外れた裏道っぽいところを進み、
やがて晴海通り(勝鬨橋 のある通り)に合流するとやおら賑やかさというか、
華やかさが増したような気がしたものです(昭和の感覚ですな)。
で、その晴海通りを銀座方向に進んでいくと必ず目に留まる建造物があったのでして、
その異形は実に実に怪しい感じがして、このエリアのランドマークでありながら
今に至るも近寄ったことがなかったのでありますよ。
それが築地本願寺であります。
ずいぶんと長い前振りでしたですが、このたび築地界隈をぶらりとしたものですから、
一度くらい立ち寄ってみるかと意を決して!通り抜けることにしたというお話でありまして。
ですが、門のところで「通り抜ける際は本堂に一礼してください」との看板に出くわし、
何やら心のうちを見透かされて、先に釘を刺された感あり。
怪しい…との思いが募るところでありました。
その何故怪しいと思ったか?ですけれど、
中学生的常識ではどう見ても「これはお寺じゃない…」ということにつきましょうね。
もともと京都・西本願寺の別院として浅草に置かれていたものが、振袖火事(1657年)で焼失 。
その後幕府から割り当てられたのは何と海の上であったため、
門徒一同せっせと埋め立てに精進した結果、現在地がある…てなことがwikipediaに出てました。
さすがにその頃の建物は、広重「江戸百」でも見られるとおりに「日本のお寺さん」然としたものでしたが、
現在の建物は関東大震災後の再建によるものでしょうか、昭和初期に建てられたようです。
…という受け売りはこのくらいにして、境内をふらふらしてみましたけれど、
いちばん大きく目につくのはやはり親鸞上人ということになりますですね。
笠でもってちいともお顔を拝すことができませんが、
はっきりいって仏教関連の知識はとんと持ち合わせておらぬ不心得者ですので、
まああまり気にしないで、いわば表敬訪問というやつですね。
ところで、立ち寄ってはみるものだと思いましたのは、
境内のそここで見かけるあれやこれやに「ほお~」とか「ふ~む」とかしきり。
例えばはこのような。
解説板があるなと近寄ってみると、江戸琳派として有名な酒井抱一
の墓所でありました。
抱一は姫路藩主である大名・酒井家の生まれながら、
西本願寺の文如上人のもとで出家したということですので、
築地本願寺に墓所があるのも当然かと。
ただ抱一と号して琳派に傾倒するのは37歳で出家したあとのようですから、
当時としては結構遅咲きの人だったような気がしますですね。
こちらは「森孫右衛門供養塔」とありましたですが、はて森孫右衛門とは?
以前、佃島 の成り立ちに触れて、大阪は摂津から漁師たちが呼び寄せられたことに触れました。
どうやら孫右衛門はそうした漁師たちの元締めでもあったような。
摂津出ということに関係があるのか、佃島には本願寺門徒が多く、
この地の埋め立てにも彼らは尽力したものと想像されますですね。
お次は「間新六供養塔」で、間新六は赤穂浪士のひとりでありまして、
四十七士の墓は揃って高輪泉岳寺にあるものの、
新六が埋葬されたのは築地本願寺であったそうな。
何故そういうことになったのかは不明のようですが…。
ついでにもひとつ、「土生玄碩先生之碑」というもの。
幕府奥医師として将軍・家慶の眼病治療にあたったりした人ということですが、
眼科における西洋療法をシーボルトから伝授されたお礼として将軍拝領の紋服を送ったところ、
これを咎としてシーボルト事件に連座することになってしまったと。
本願寺に至る前、築地界隈を歩いては浅野家の邸跡があったり、
はまたまシーボルトの像があったりしましたけれど、
何だか妙にいろいろつながっておるなぁ…と思いつつ、
何十年かごしに初めて訪ねた築地本願寺を後にしたのでありました。