例えばオペラでは次々と新演出でもって上演されたりしますですが、
これには本来の物語とは異なる時代、異なる場所に置き換えて作られる

なんつうのはざらであって、ケネス・ブラナーによる映画版のモーツァルト 「魔笛」では、
「夜の女王のアリア」の部分で歌っている夜の女王の口から戦車が続々と出て来る…

みたいな描写があったような。


手法的には映画だからこそではありましょうけれど、

まあ、見せ方というのは実にいろいろとあるものですね。


シェイクスピア の芝居もあれやこれや工夫があれることがありますが、
以前見た劇団昴の公演「から騒ぎ」は舞台を明治日本に置き換えていました。


設定に無理があるとまでは思いませんでしたが、
ベアトリス役に対して「とりさん」と呼びかけるあたりは、

やっぱりどうしても笑ってしまうというか…。


とまれ、こうした演出の工夫といいますか、見せるバリエーションを凝らしてなお
本来の物語に通る筋は曲がることがない…だからこその古典と言える作品が

こうした新機軸の対象となるのかもですね。


と、この長い前置きは2012年の映画「アンナ・カレーニナ」への話に繋がっていくのでありますよ。
(わざわざ2012年と断ったのは、「アンナ・カレーニナ」がこれまで7回も映画化されているからでして)


[DVD] アンナ・カレーニナ


トルストイの名作「アンナ・カレーニナ」となれば、
どうしたって香り高い文芸ロマンの色合いを映画にも求めてしまうところではないかと思うだけに、
そうした方向を期待する向きには「こりゃ、のっけからだめだな…」と仕立てであったような。


まず映し出されるのは、劇場の舞台風景。
ステージ上では一人の男(アンナの兄、「リッパー・ストリート 」主役の警部の人でした)が

従僕に髭をそらせている場面なのですね。

「こりゃあ、舞台劇を見せる感じで映画にしているのかな」と思い掛けるも、

やっぱりそれだけではない。


ですが、確かに舞台上の場面転換だけで見せるのではないながら、

舞台袖、舞台裏、奈落やキャットウォークまで使って、場面場面の場所として見せていくというのは、

かなり芝居に拘りながらも映画ならではの作りでありますね。


映画だからこそ何でもできるところに無理やり制約をかけて、かつ流れを破綻無く作り上げる、
見ている方もそうしたものであることにやがて馴染み、違和感を抱かなくなる。

あたかも舞台の枠の中に全世界が詰っているかのような気にさせるところは、

とても芝居的でもあるわけですね。


こうした仕立て自体は大変に面白いものと思い、

注目すべきはまさにこうした点と思いましたけれど、
先にも申し上げたとおり文芸ロマンとしてひたすらにロマンティックなドラマを期待する向きには
そこかしこのマニアックな演出にはうんざりもしようかと。

一般的に評価が良からず、悪しからずなのもその辺りが原因なのではと思うところです。


と言う具合に、仕立ての工夫を思えば実に興味深いわけですが、
その中身たる「アンナ・カレーニナ」という物語を考えるとき、

完全に仕立ての工夫に負けてんなという印象。


時に芝居や映画とは全然別の絵画の分野になりますが、

イワン・クラムスコイが描いた「忘れえぬ人」という一枚が思い出されますね。


アンナ・カレーニナを描いたとはっきり言えるものではないものの、

影響を受けてという説はあるようですが、描かれたこの一場面だけですでに

文芸ロマンの濃縮になっているのとは、残念ながら大違いというべきかと。


先に、演出の工夫をしても本来の物語に通る筋は曲がらないからこその古典…

てな言い方をしましたですが、だからといって外側に工夫を凝らし過ぎるあまり、

中身への踏み込みをお留守にするとこうした映画になってしまうのやもしれません。


ですがこの映画のやっかいなところは、
「じゃあ、つらないのか?」というと工夫で見せる部分に面白みを感じれば、
それなりに面白いけれど、
本来の「アンナ・カレーニナ」風味を期待してはいけない…という点でしょうかね。


と、ここまで言ってからだと白状しにくいですが、
実はトルストイの「アンナ・カレーニナ」を読んだことがないのでありまして、
やっぱり読んでからとやかく言うべきでしたですかね…。