またまた新聞書評で見かけた一冊ですけれど、かように当該欄を気に掛けるのはですね、
自分で書店や図書館の中を物色して歩いたとして、およそ手に取らないあろう本に
「もしかして面白いのかも…」と思うことがあるからでありまして。
自分の好みで選んでいますとなかなかに固定的になってしまう領域が
やおら広がるといいますか。
だいたい「ねんきん」とインプットすると
ほぼ「年金」と変換される(PCばかりか自分の脳内でも)わけで、
それが「粘菌」と言われてもそりゃあなんだ?となるわけでありますよ。
なんでも粘菌というのは単細胞生物であって、アメーバ状に動き回ることができるものであるらしい。
そして、エサ(オートミールなんだそうで)を複数個所に置いておくと
管状に変化してエサ場どうしをつなぐ(植物の枝が光を求めて伸びる…みたいな?)、
つまりはあっちからもこっちからも最短経路でもって養分補給をし始めるのだと言うのですね。
粘菌が管状になって作り出すネットワークがどれほどに確かに最短経路を結んでいるか、
こうした点に研究者は目を向けるようで、迷路の中に粘菌を放り込み、
その迷路の入口と出口にエサを置く…といった実験をしたところ、
じわじわと動き回り、途中あれこれの行き止まりにも阻まれつつも、
最終的には迷路の入口と出口とを最短経路で結ぶ管となっていたのだそうな。
著者の研究グループはこれで見事にイグ・ノーベル賞を獲得したわけですが、
脳も神経もない粘菌がどうしてこういうことができるのか?までは解明されていない。
それでも、粘菌と共に歩んで25年という著者からすると、
世に「単細胞」という言葉が劣等なるもの意として使われることに異を唱えたくなるようで。
もう一つの実験として、関東地方の地図の上に粘菌を置き、
主要都市と思われる地点にエサ場を設けていくというのがありました。
そうすると、最後に管状となった粘菌が描き出すネットワークは
関東地方の鉄道路線図と近似したものができあったという。
もちろん、迷路の時と違って、山や川といった自然の障害物は
粘菌にとっても何らかの障害物で代替し、
単なる平面を移動して行くのとは異なる条件を付加した上でのこととなれば、
必ずしも最短ばかりが肝心な点ではなくなりますが、
そうした点も加味した結果が得られたとすると、
人と粘菌のやることに大差はないてなことになりましょうかね。
単細胞を侮るなかれ!でしょうか。
と、こうした本を読んでおりましたときに、
これまたたまたま映画「パリは燃えているか」を見て、
粘菌でもパリを解放できたろうか…と思ってしまったり。
かなり藪から棒で何のことやらかもですが、第二次世界大戦下のフランスで
ノルマンディー
に上陸した連合軍はドイツ軍を壊滅させるべく西へ西へ、ライン川へと進路を取る。
されどナチス・ドイツ
に占領されたままの首都パリではレジスタンスが抵抗を続けるも
もはや連合軍の到来なくしては全滅寸前の状態で、
連合軍に対してパリ解放の作戦発動を懇請していたという。
それでも一気にドイツを打ち破ってしまいたい連合軍としては、
パリ解放は寄り道以外での何ものでもなく時間をロスするものと判断して、
南下することを渋っているようす。
そこへパリから独軍の防御線を超えて対峙する米軍陣地まで、
ひとりのレジスタンス戦士が決死の覚悟で乗り込んでいき、将軍たちを説き伏せることに。
結果からすれば、連合軍は沿道全てで歓呼の声に迎えられながらパリを目指し、
これを解放するのですね。
おそらくこの作戦は距離的に最短でもなく、
独軍本体が崩れればパリ占領軍は自ずと解体すると考えれば物量的にも時間的にも、
二の次、三の次の作戦だったかもしれませんですが、パリを解放することによって
連合軍はフランス人全員を一挙に味方につけた感がありますね。
(逆に置き去りにされた場合のフランス人の疎外感は容易に想像できようかと)
これによっておよそ後顧の憂いなく、しかも後ろからは大きなバックアップのもとで、
ドイツに進撃できるようになったのではないかと思いますから、
パリ解放への遠回りは決して無駄ではなかったのではないかと。
これと反対に先を急ぐあまりの作戦展開で失敗したのが、マーケット・ガーデン作戦だったのかも。
「遠すぎた橋」として映画にもなりましたですね。
どういう経路を進んでいくかに関しては、いろいろと考慮すべき要素があって、
粘菌でもおそらくはノルマンディー上陸後は西へと伸びていくことはしても、
およそパリを迂回するという方向をとることはなかったのではないかと思いますですね。
人の気持ちを読むという点で、さすがにこれは粘菌の考慮外ではなかろうかと。
もっとも粘菌には脳も神経もないんですが。
単細胞である粘菌を探ることで、
その後細胞の数がずっと多くなった生物の根源に迫ることができましょう。
その点で単細胞を侮ってはいけんわけですが、
それでは例えば人間だったらどう違うのよといったことを考える
契機にもなるのではなかろうか…と、そんなふうに思いましたですよ。