結果的には大したことも無かったわけですが、
先日具合の悪くなった父親とタクシーに同乗して病院
に向かっていたときのこと。
どうしたって「いち早く、病院へ」と思ってしまうわけでして、
もし仮に自分で運転する車であったら、そうした気持ちは
実際の運転にも表れてしまうのかもしれんなあと思ったですよ。
というのも、たまたまにもせよ、映画「チェンジングレーン」を見たからでありまして。
車線変更に伴って起こってしまった接触事故で
当てた側のギャビン(ベン・アフレック)と当てられた側のドイル(サミュエル・L・ジャクソン)、
二人の男はそれぞれに急ぐ理由を抱えていたものですから、
きっと両者の運転にはやはり気持ちのあらわれがあり、
結果、起ってしまったてなことになりましょうか。
まあ、映画の話としては、タイトルの「チェンジングレーン」はほんのきっかけであって、
思いがけずも出会った二人の男が、互いに相手に対して憤りを募らせていくという
途中までのストーリーは何ともいやあな気分になるものです。
だんだんと嫌がらせ合戦が昂じていくような中では、
もそっと落ち着いて話し合う瞬間てのが持てたであろうにと、
見ている側は冷静ですから、かように思うところですけれど、
当事者ともなるとそうはいかないんでしょうかね。
前にも、不機嫌は協力な伝染力を持っている…てなことを書いたことがありますけれど、
不機嫌な人を目の前にすると、今の今まで冷静でいた人までは「いったい何なんだよ」と
一瞬のうちに不機嫌がうつりますから、お互いにそんな調子の者どうしであっては
高ぶりが弥増すばかりということなんでしょう。
ただ、そうした部分ばかりでは
「何だよ、この映画」と見終わった者まで不機嫌になってしまいかねないわけで、
さすがに違った展開もまた用意されてはいるわけでして、
そこのところに思いをいたすと単なる話のきっかけとなる接触事故につながる
「チェンジングレーン」というタイトルは、人生で自分が走って来たレーンを乗り換えることとも
思えてきますですね。
まず当てた側のギャビンですけれど、エリート弁護士という役どころ。
とにかく事務所で引き受けた仕事は(どんなものであっても?)勝訴することが大事で、
その結果、事務所のステイタスも上がり、自分もパートナーへの道が開けるということで、
その道を驀進中という人物なわけです。
が、話の過程で大口の仕事に絡む事務所の不正に気が付いたギャビン。
これまでの進行方向が果たして正しいものだったのかどうか揺らぎが生じる。
丸く収まることを最善として、ありていに言うと見て見ぬふりをするよう誰もが説得する中、
ギャビン本人は全く釈然としない気持ちに捉われているという。
一方、当てられた側のドイルが急いでいたのは、家庭裁判所での離婚調停審理に出席するため。
自らのアルコール依存が原因となって(その部分は描かれないですが)、
妻も子供たちも失うかという瀬戸際に立っていたのですね。
失うものの大きさに気付いたドイルは、禁酒セラピーに参加して酒を断ち、
家族と共に暮らすアパートの購入にも目処をつけたところで裁判所に乗り込むつもりだったのが、
接触事故のせいで辿りついたときには審理終了。
もはや家族の絆は断たれ、妻と子供達はニューヨークからオレゴンを引っ越してしまうことに。
ここで思わず酒場に足を向けたドイルは、
バーボンを頼んだものの、グラスとにらめっこを続けますが、
かつての飲んだくれ状態から脱するという路線変更自体に間違いは無かったわけで、
結局飲み干すことはなかった…。
最終的にはギャビンとドイルがどうなっていくのか、
それを書いてしまっては面白くなくなってしまいますので遠慮しておきますけれど、
降って湧いた災難とも言っていい接触事故が、ギャビンにとっては大きな進路変更に、
ドイルにとっては変更過程でその正しさを確認することにつながった。
事はなんであれ、人生の岐路というのはどこで行きあたるかわかりませんですね。
だからといって、神のみぞ知るみたいな言うと多分に運命論めいてしまうところですが、
分からないからといって悲観的に考えるよりは、先を読めない楽しさとでもいいますか、
そんなふうに考えていたらいいのかな…てなことを思ったのでありますよ。