夏目漱石内坪井旧居 から、本当ならば自転車ですすっと移動していたはずなんですが、

途中で藤崎八旛宮 に思わぬ立ち寄りがあって後(実のところは方向に惑いが生じた…)、

ようやっとたどりついたのは熊本大学、元の旧制第五高等学校であります。


旧制五高表門(赤門)


これは熊大の赤門でありまして、旧制五高の表門であったそうですが、

煉瓦造りではあるもののかなり薄汚れていることもあり、何の変哲もない…と思ってしまいそう。

されど、これも国指定の重要文化財だそうですから、侮ってはいけんのかも。


ちなみに造られた当時から門扉は無かったそうな。

つうことは、学問は万人に開かれている…てな考えがあったのでしょうか。

思い付きですが。


熊大のHPには構内の「歴史散策マップ」なんつうものがUPされていて、

前身が明治20年(1887年)設立と最初期からのナンバースクールであったことから

あれこれの見どころが散在しているキャンパスではありますが、

ここではいくつを拾いつつ、資料館たる「五高記念館」を目指すことに。


ポイントのひとつはやっぱり夏目漱石でありましょうかね。

しっかりと記念碑が置かれてありました。


夏目漱石記念碑@熊本大学


なんだかツルンとした漱石だなぁと思うところですが、

それはともかくも夏目先生が旧制五高で英語の教授にあたったのは

明治29年(1896年)から同34年(1901年)までの5年間。


その間には開校記念日に代表として祝辞を読み上げたりすることもあったそうでして、

上の像の傍らには、その祝辞の一節を刻んだ石もありました。

曰く「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ、師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」と。


ツルンとした漱石の後は、へるん先生 ことラフカディオ・ハーン、小泉八雲も

旧制五高のポイントとして外せない。やっぱり記念碑がありました。


ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生の碑・レリーフ


ラフカディオ・ハーンは少年時代に左目を怪我して見えなくなっていたこともあり、

写真などでは右目側だけが見える横顔で写っているものが多いですけれど、

このレリーフもそうした写真を材料にしたのでしょうね、見事に半身であります。


よもや赴任当時の五高校長が嘉納治五郎だったから、

影響を受けて柔道の構えか?とはうがち過ぎとは思うものの、

「柔術」という著作があると知れば、もしかしてとも。


と、このへるん先生の後方、真ん中に口を開けたような建物が見えますけれど、

これが五高記念館(旧制第五高等学校本館)。

早速、向かってみることにいたします。


五高記念館@熊本大学


1889年(明治22年)に完成したこの建物は煉瓦造りのクイーン・アン様式だそうで、

クイーン・アン様式となると邸宅建築の方がイメージしやすいような。


ですがWikipediaによりますと、

かつてのスコットランドヤード赤煉瓦庁舎はクイーン・アン様式の代表作のようでもあり、

はたまた東京駅の建築にも影響を与えた…となると、赤煉瓦だし、なるほどなぁと。


五高記念館へのアプローチ


ですが、熊本大学のHPには「庇や建物内部には西洋風の装飾が施されている」とありまして、

全体像よりもそうした細かい部分の方がクイーン・アン様式とのイメージはしやすいかもですね。


五高記念館の庇


とまれ、中に入って展示の方はといいますと、旧制五高の歴史はもとより

教授陣、学生生活、そして卒業生に至るまでかなりたっぷりしたものでありました。


面白いなと思いましたのは…というか、ありそうな話ではありますけれど、

そもそも明治19年の「中学校令」で全国を5つの学校区に分け、

そのそれぞれに高等中学校(後の旧制高等学校)を置くことになったときに、

第一区の東京、第二区の仙台、第三区の京都、第四区の金沢と

早々に設置場所が決まっていったものの、さて九州全体を第五区として

新たな学校の設置場所をどうしたものか、各県が誘致合戦を展開したそうな。


それが熊本に決したのは、当時の文部大臣・森有礼が

「大藩にして而も良風漲る熊本の地が、地理的にも、歴史的にもその条件を具備している」

と考えたからと「五高五十年史」にはあるそうですが、後付けなんではないですかね…。


展示でやはり気になるのは「教授陣」のところで、

それこそ名だたる学者先生が多々在籍しておられたのでしょうが、

どうしても目がいくのは(また展示スペースも大きい)夏目漱石と小泉八雲でありましょう。

(ともに在籍中は、夏目金之助であり、ラフカディオ・ハーンですが)


あまり細かく記している長くなるので、ちと漱石のことだけいくつかを。

「漱石は兵役を逃れるために北海道に本籍を移していた」とは聞いたことがありましたが、

明治29年4月の「英語科教授嘱託」採用辞令によりますと、

確かに「北海道庁 平民 夏目金之助」と書いてありましたですね。ふ~むと。


また、明治33年、英国への留学辞令には「英国留学中英語教授法ノ取調ヲ嘱託ス」と

されながら、漱石はせっせと英文学を学んだんですよねえ。


要するに派遣した側の思惑とは別のことに取り組んでいたわけですが、

文部大臣宛留学中間報告には、漱石認めて曰く「物価高直ニテ生活困難ナリ」と。


こうした留学中の史料が残されているのも、

留学までは熊本におり、帰国した際には東京で一高、帝大の職につくことから、

留学中の拠り所といいますか、熊本との関わりが残っていたからかもしれませんですね。


…と、他にもいろいろ展示はあったですが、長くなるので端折った分、

ラフカディオ・ハーンの方はこの次ということにいたしましょう。

五高記念館の次に向かったのが、小泉八雲熊本旧居だものですし。