今年、2014年は竹久夢二の生誕130年と同時に没後80年なんだそうですね。
そうした関係で、三鷹市美術ギャラリーでは
「大正ロマンの恋と文」と銘打たれた展示がなされておりまして、
ちょいと覗いてみたという次第であります。


「大正ロマンの恋と文」展@三鷹市美術ギャラリー


まあ、竹久夢二やその作品に特別関心があるわけではないのですけれど、
以前、両国の東京都復興記念館(ここでの復興は関東大震災のことです)で
震災直後に夢二が東京中のようすをスケッチに留めたということに「ほぉ~」と思ったり、
また昨年は伊香保温泉で竹久夢二伊香保記念館 に立ち寄ったなぁと思ったりしたものですから。


伊香保での夢二は、愛する人との交わす文に互いを「山」「河」と呼びかわすようなところが見られ、
この辺りでも「うむ、大正ロマン」の芳香てな気がしたものですけれど、
今回の展示で、たまき、おしま、彦乃、お葉、秀子と次々に現れる女性たちとの遍歴を
まざまざ目の当たりにしますと、自由ともいい、大らかとも言えるのかもですが、
「うむむむ…」と思ってしまうわけです。


これは偶然かもしれませんけれど、夢二には取り巻きがおり(取り巻きとは失礼かもですが)
「夢二サロン」なるものができていたそうでありまして、その中に画家の東郷青児がおったのだと。


東郷青児で思い出す(その絵画作品とは別にということですけれど)のは、
宇野千代の小説「色ざんげ」の登場人物であるということ。


もっとも作者自身も絡んだ暴露小説みたいなところもあるわけですが、
大正ロマン(小説の方は昭和8年に発表されたので、ちと遅いか…)という、
あたかも夢見心地的な雰囲気で片づけられない男女の姿に大いに戸惑ったものでありますよ。


そんなことも思い出されて「夢二よ、やっぱり…」と思うところながら、
取り敢えずここでは「恋と文」という辺りとは違う側面から記してまいることにいたします。


画家を志した竹久夢二は24歳のときに、
フランス留学から帰国して東京美術学校の教授になっていた岡田三郎助を訪問するも、
その結果として夢二が決意したのは、画壇には属さず「独自に精進」することであったとか。


理由のほどまでは解説されてませんでしたが、
かなりの反骨精神の持ち主でもあったように想像されなくもない。
実際、その後の活動領域の広さを考えれば、致し方なしかもですね。

もっとも、生活の糧を得るためには何でもこなさなくてはならなかったこともありましょうか。


そんな活動領域の一つとして、出版楽譜のカバー画というのがありますね。
明治以降、西洋文化が大量に流れ込んでくる中では、
西洋への憧れといったものも同時に醸成されたことでしょうけれど、
泰西名曲の楽譜が出版される(ということは売れたのでしょう)のも流れは同じ。
展示されたカバー画には、こうしたものがありました。

  • タイスのメディテーション(大正13年)
  • ワグネル「タンホイゼル」順礼の合唱(大正13年)
  • シュウベルト「さすらい人」(昭和3年)

今から見れば表記がユニークですが、それぞれ何の曲だか分からないことはない。
で、そのカバー画ですが、洋風の雰囲気をうまく出している気がしますですね。
ちなみに夢二の洋行は昭和6年~8年で、西洋の実際を目にするのはもそっと後ですのに。


また雑誌の表紙絵も手掛けていて、「婦人グラフ」の表紙などを見るいきますと、
「大正モダンや当時流行していたアールヌーヴォーの雰囲気も作中に取り入れている」

との解説に「なるほどね」と思うところでもあります。
研究熱心の一面もあったのでしょうね。


さらに、デザイナーの側面を知るひとつとして、千代紙のデザインなどがありました。
「日傘」や「マッチ棒」といった素材を並べて、なかなかおしゃれなものになっておりましたですよ。


実のところ詩人になりたかったというようなところもあったそうですが、
自ら作詞した「宵待草」は流行歌にもなりました。

そうした詩才で認められた文には女性たちもついつい…かどうかは分かりませんけれど、
展示にある文の数々は、実に実に情熱的でありまして。


竹久夢二という人は相当に多才な人であったと思われますが、
惚れっぽいというのも才能のうちだったやもしれませんですね。