夏目漱石
が、といっても漱石が漱石になる前のことなわけですが、
明治29年(1896年)4月、松山中学から熊本の第五高等学校に転任し、
4年と3カ月を熊本で過ごしたそうな。
元より転居癖があるとまでは言えないかもですが、
熊本在住中の漱石が住まった家は都合6か所。
その中で五番目の家が最も長く住んだところのだそうで(といっても、1年8カ月だそうですが)、
そこが夏目漱石内坪井旧居として資料展示と共に公開されている。
ということで、出向いてみたのでありました。
もちろん細川刑部邸
のような武家屋敷に匹敵するものではありませんけれど、
それでも今の一般的な感覚からしても、なかなかに広い庭があり、部屋数もそれなりにあって、
いい家だなと思いましたですね。
そして、資料館としては解説展示が実に豊富で、
人間・夏目金之助を偲ぶのにとても興味深いものだと思われましたですよ。
まあ、こうした蝋人形館みたいなものはご愛嬌としても、
この謹厳実直っぽい姿を隠れ蓑にした、実はお茶目な、
恥ずかしがり屋の一面を窺わせるエピソードがたくさん解説の中で紹介されているのですね。
これは庭先にある井戸で、この家に住まっているときに生まれた長女の筆子が
産湯をつかった井戸なんだそうですが、長女誕生に当たって漱石の詠んだ句がこんな具合。
安々と海鼠の如き子を生めり
妻のお産に際しても、泰然自若というのか、ちと引き気味の感じで
自分の子を「海鼠の如き」と評したりしていますけれど、
実のところは初産に苦しんだ妻・鏡子のそばには付ききりで、
何くれとなく世話をしたようなことも書かれていたのですね。
ロンドン留学時に家族へ送った手紙なんかでもそうですが、
漱石は、実際そうじゃないことがバレバレなのに、外づらを繕うといいますか、
カッコつけて家族のことを傍目にはけなしてるみたいな書きようがありますものね。
こちらは、漱石を慕って「物置でもいいから、居候させてくれ」と頼み込んだという
寺田寅彦ゆかりの物置てな説明の付けられた建物。
その寅彦を始め、五高の教え子たちの言として、
夏目金之助先生の思い出がこんなふうに紹介されていました。
先生はいつも黒い羽織を着て端然と正座していたように思う。…自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生は何となく水戸浪士とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。
教場へ入ると、先ずチョッキのかくしから、鎖もなにもつかないニッケル側の時計を出してそっと机の片隅へのせてから講義をはじめた。何か少し込み入った事について会心の説明をするときには、人差指を伸ばして鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。
まずこの二つは寅彦の見立てですけれど、
外に向けてはきちっとする几帳面さ、神経質さが見えるのと、
寅彦の方も物理学者らしい観察眼といいましょうか、そうしたものも窺えるところかと。
また、別の学生はこんなふうに。
下見をしていないで人の陰に隠れていると、きっと輪講をあてられる。少し拙いことをやると、例の一寸首をかしげた温願から、上品な皮肉を浴びせられる。私はこの時分から、先生は一面頗る厳粛な所があると同時に、一面には茶目式の所があると思っていた。
漱石の講義を覗き見ているような気にもなり、にやりとしてしまうところですけれど、
印象としては「まさに!」といったところかと。
その場に臨んでいた学生の感想が
まさしく想像通りの漱石像を浮かび上がらせている気がしたものです。
学校での話のほか、自宅にあっても素顔の漱石が犬好きだったエピソードも微笑ましい。
何でも漱石の可愛がっていた犬がやたらに吠える犬だったそうで、
近所迷惑になっていたところ、とうとう通行人に噛みついてしまったそうな。
このときの漱石としては、
犬は利口で、人相のいい人には吠えも噛みつきもしないのだから、
噛みつかれる方の人相が悪い…てなことを言ってしまって、
騒ぎを大きくしてしまったのだとか。
ところが、ほどなくした後、この犬は帰宅した漱石に吠えかかったばかりでなく、
ご主人に噛みついてしまった。漱石の苦虫噛み潰した顔が浮かぶようではありませんか。
と、エピソード満載であったわけでけれど、この家の書斎は
宮崎アニメ「風立ちぬ」
の主人公・堀越二郎の仕事部屋のモデルになったのだそうで。
こんなふうに広く見えるような角度からだと、なんとなく思い出されましょうか。
ま、「風立ちぬ」は余談として、この夏目漱石内坪井旧居、
実に訪ね甲斐のあるところではなかったかと。
熊本市の見どころは、決して熊本城
だけではありませんですよ。