暑さ真っ盛りの最中、外回りの折に緑道の続く親水公園が目にとまり、
木陰のベンチに腰をおろして、ふうとひと息。
そんな時のことでありました。


どこからともなく、といっても緑道沿いに建つマンションのいずれかからとは思いますが、
ピアノの音が聞こえてきたのでありますよ。


最初はスケールの練習みたいなふうだったこともあり、
そして窓を閉め切った中からと思しきほのかな音色でもありましたので、
気にも留めずにいたのですけれど、そのうちに「おや?」と。


ベートーヴェン のピアノ・ソナタ「悲愴 」の第2楽章。
ビリー・ジョエルが「This night」に持ってきてしまうくらい、
フレーズ作りのベートーヴェンにしては歌のあるメロディーとして有名な部分。

これが、実にほのかに漂うごとく漏れ聞こえてくるのでありました。


先ほどまで「ピアノか…」とは思ったものの、さして気に掛けるでなくいたわけですが、
この「悲愴」のメロディーにはついつい耳を傾けてしまったのですね。


辺りは(当然にコンサート会場ではありませんから)脇の道をバイクがぶろろと通り過ぎ、
頭の上では蝉が鳴き、遠くからは子供たちの水遊びをする声が幽かに響いてくるという環境。

ある意味、とても音楽を聴くような状況ではないと思ってしまうところでもあろうかと。


ところがですね、そうした状況、つまりは元々ほのかな音色である上に、

周囲の生活騒音(?)でさらに聴きとりにくいにも関わらず、
このピアノの調べが心に沁み入ってくるかのよう。


じゃんじゃんと蝉時雨の降り注ぐ中で(?)「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ

松尾芭蕉の心境…に達していたわけではありませんけれど、心持ちはそんなふうでもあったろうかと。

と、ふとここで思うことは、音楽、取り分けクラシック音楽と言っていいかもしれませんが、
「音楽を聴く」というのはどういうことなんだろうということなのですね。


普段、家にいてCDやレコードに封じ込められた音楽をステレオ装置を介して聴くときに、

立派にお金を掛けて防音対策を施してあるよう造作ではありませんから、

この時と同じように、バイクのぶろろも、道行く人の話し声もあり、

ともすると音楽がよく聞こえないことに「仕方ねえなぁ」と思ったりする。


ましてやコンサート会場にいると、近くから漏れる衣擦れの音さえ気になってしまう。

こうしたところをして、クラシック音楽の演奏会場は神聖な儀式の場でもあるかのようと評した

学者の方がいましたけれど、そこまで「ありがたや、ありがたや」とは思っていなくても、

演奏会ではその場に流れる音楽にどっぷり浸りたいものとは思ってはいようかと。


そうした、とにかくいい音で聴けることを良しとするようなところがあるにも関わらず、

この時の、何をどう構えるでもなく、普通にそこにある音とともに流れてきたピアノの音に

反応してしまう心性とは…。


たぶん、音楽と人との関係は、相当に古い古い付き合いがある中で、

「いい音で聴きたい」というのはかなり後付けのものなのではないですかね。


コンサート・ホールにしても、音響を考えて進化を遂げている。

また、オーディオのソフトウェアや再生装置にしても、どんどん新しいものが出てくる。

そうしたものに触れる中で、「もっともっと」と思って(思わせられて)しまっているのかもです。


コンサート・ホールで、体全体でもって放射される音の波を伴った空気に浸るのも捨てがたい。

しかしながら、そうした聴き方だけにしか反応できないわけではない。

人は想像力という翼を思い切り広げて、豊かな受け止め方ができるのですよね、きっと。


全くもっての不意打ちながら、そして全くもって今さらながら、

改めてそんなことに思い至った真夏の昼下がりでありました。