先頃でしたか、「憲法を撮ろう」という講義をやっている北大の話が
新聞に載っておりましたですね。
それを思い出しつつ、つらつらと考えておりましたですよ。
憲法が身近なものだと感じてもらうため、
日本国憲法からイメージする場面、風景等をカメラで切り取るという授業なのだそうな。
受講者ひとりひとりの受け止め方の下、
憲法に規定されている幸福追求権(13条)や生存権(25条)などが視覚化された格好で、
憲法に関わることが身の回りに山ほどあるという気付きにつながってくるようです。
そもそも憲法の講義をこうした形で展開していくことになったきっかけというのが、
受講者の基礎的な理解を確認するために出した問題に誤答が多かったことだというのですね。
「①」は憲法を守らなくてはなりません。もし守られないときは「②」が守らせなければなりません。
①、②それぞれに単語を入れる問題(おそらく選択肢ありなのではと想像しますが)ですけれど、
個人的にもすぐさま答えを入れようとして、ちょと考え、
入れようとした答えが①、②で反対だぁと気付いたのですね。
正答は①=政府、②=国民。
うっかり最初に入れようとしてしまったのがこれと反対でしたから、それだと
「国民は憲法を守らなくてはならず、そうでない場合は政府が守らせるようにする」と
なってしまう…。
法律は人を縛ることで社会に秩序をもたらしていますから、
ついそんなふうに考えてしまうところなのかもしれませんですね
自分自身も、危うくそうなりそうでしたし、
先の講義の受講者も、この類いの誤答が多かったのだそうです。
ですが、憲法をもう一度よおく考えてみると、
いろいろと規定されていることを実現させる主体は
「人(ひとりひとりの人)は…」でないことが分かりますですね。
例えば幸福追求権と言われる25条ですけれど、条文にはこうあります。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
「すべて国民は」とありますから、
即ち「日本の人ひとりひとりは」が主語でないかと言われればそのとおりなんですが、
ここに書かれた「権利を有する」の意味するところは、
「あなたにはかくかくしかじかの権利があるけど、誰も保障しませんよ」ではないはずです。
従って、わざわざ憲法に「権利がある」と書かれていることを誰かが保障してやる必要がある、
むしろ憲法はその保障する義務を定めているわけで、その義務を負う主体が日本という国、
ひいては行政を担当する政府ということになるわけですね。
そして、政府がその義務を遂行しない(憲法を守らない)場合には、
権利を有する国民の側が政府に対して「お前ら、ちゃんと守れよな!」と言わねばなりませんし、
また言うことができるわけです。
こうした基本的なことを大学生の多くが答え間違う、
しかも北大生ですからねえ、センター試験でも相当な点数を取り、
学力的には「頭がいい」とされる人たちでもありましょうに、この状況…。
そりゃあ、政府の好き勝手にもされてしまうかも。
もっとも教育自体がその政府の側が補助金交付を釣り餌に、
必ずしも大局的な見地に立つことを保障されておりませんし、
国=政府の方向性を批判的に検証するてなこともできにくいとなれば、
それこそやりたい放題になりそうな…。
今はどうかは分かりませんけれど、少なくともかつて教育を受けていた頃に
科目としての「政治経済」はほとんど付けたし的な授業しか受けていませんし、
受験のための選択科目にしていたとしたらいざ知らず、
また現実に日本史や世界史選択が多いとするならば、
大学生になってもこの国の政治の仕組みを知らなくてもやむを得ないのかも。
もしかして「知ってもらっては面倒だ」と考える政府が戦後長年にわたって
続いていたということやもしれませんですね。