…ということで復元工事の進む山形城 ですけれど、
あくまで今では霞城公園ということになっておりまして、
敷地が広いだけに体育館、野球場、弓道場、武道館といったスポーツ施設がある一方で、
児童文化センターやら県立博物館やらの文化施設も設置されているのですね。


そうした文化系の施設として公園内に移築されてきたというのが旧済生館本館、
現在は山形市郷土館として、国の重要文化財という建物を活かしつつ、
様々な資料展示が行われているという。


されど、県立博物館は目立つ場所にあって観光客も立ち寄るやもですが、
郷土館の方は木立に囲まれた奥にあって建物も容易には見えず…となると、
博物館の方だけで満足して足を向けない方もおいでであろうかと。


個人的には(時間的都合もこれあり)博物館をすっ飛ばしてでも市郷土館の方に寄ったのは、
そのユニークな概観を持つ建物で故でありました。


当日はたいそうな雨でもあってなおのこと見通しにくい木立を、
分け進んでいった先にあった市郷土館=旧済生館本館の正面はこのような見た目。
何やらおもちゃの国にでも迷い込んだような気にさせられますですね。

旧済生館本館(山形市郷土館)


塔屋部分まででは三層(内部は実質4階建)に見えるところから
地元では「三層楼」とも呼ばれていたようです。


が、実のところ、この建物の独特なところは正面側からのパッと見では分からないのでして、
入口のある裏側に回り込んでいくと、「おや?」と思うのでありますよ。
先ほど正面から見た部分を裏側(内側)から見てみると、こんな具合になってます。

旧済生館本館を内側から


三層四階建てになっているのは、塔屋を乗せた正面から見える一部分だけであって、
1階は裏側にぐるり円形の建物となって連なり、中庭が置かれているという。
世界遺産にもなっている中国の福建土楼を思い出してしまいます。

旧済生館本館一階平面図


ですが、初代山形県令となった三島通庸が薩摩の同郷である原口祐之を棟梁に迎え、
(この原口は、銀座に煉瓦街を造り出すことに携わったので有名かと)
山形の宮大工が造り出した擬洋風建築でありますから、
中国よりは例えば英国のグローブ座とか、そうした建築物を思い浮かべるべきですかね。


旧済生館本館中庭


実際に建物の用途としては、
西洋医学の教育と実践の場としての病院兼医学校であったそうで、
オーストリアから指導者を招いたことから「東北地方におけるドイツ医学のメッカ」とも
なっていたそうな。


元は(先に触れたように広い広い)三の丸の域内にあって、
系譜的には後に山形市立病院となって現在に至るものながら、
この建物自体はやがて時代の波に置き去りにされ、朽ち果てかかっていたものを
霞城公園内に移築して復元されたということのようです。


今の看板である郷土館としてそれらしい資料展示もありますが、
1階の円形部分を区切ったひとつひとつの展示室にはもっぱら医学関係の資料が数多くあり、
その辺りに興味がある人には貴重なものでもあるのでしょう。


ま、個人的にはそうした資料よりもどちらかというと建物そのものに目が向いてしまい、
建物内の部分部分を切り取ることの方に興味を抱いてしまいましたですが。

塔屋へ続く螺旋階段


塔屋に続く螺旋階段とか(今は登れないようです)、
階段室から中庭を覗いてみるとか…。

階段から見下ろすと 階段室から望む中庭


ちなみに山形市立病院は旧来の三の丸内の場所(七日町)に今でもあって、
済生館という名前を受け継いでいるようです。


これは、旧済生館が落成した1878年(明治11年)、当時の太政大臣であった三条実美が命名し、
手ずから書いた文字による扁額が掲げられていたという由緒を引き継ぐものなのでありましょう。


とまあ、このようにいわゆる郷土館とは

ひと味ふた味違ったふうな印象の残る山形郷土館なのでありました。