「心ある人にとっては、当たり前に過ぎることではありましょうけれど…」
と書き始めようとして(って、書き始めてますが)、はたと気になったのですね。


もしかすると「心ある」といういい方は、単に「心ない」の対義語的なものとして
(元々は無いのに)勝手に広まってしまった言葉だったりするのかも…と思ったものですから。


何となれば、およそ人であれば「心」なるものは持っているのが当たり前であって、
その心があたかも無いかのような振舞いをする場合に「心ない」とは言うものの、
「心ある」の方は、人が元来持っているものをことさら「ありますよ」と言うことに
座りの悪さを感じたのでありますよ。


ですので、こうしたあたりをちと調べてみますと、「心あり」も「心無し」も
いずれも万葉集 やら古今和歌集やらの古典に使用例がある古くからの表現である様子。


ということは、ここでの「心」というのは「あるのか、ないのか」の二つに一つのものではなくって、
「心あるふるまいの人」「普通の心の人」「心ないふるまいの人」というような、
相対的な見方をすれば良いのかなと思ったようなわけです。


よく言われるミツバチの働きぶりではありませんけれど、
頑張って働いちゃうのが全体の2割、平均的に働いてるのが6割、

どうも働きが少ないのが2割てな分布はいろんな集合を考えた場合に

結構当てはまってしまう割合かもしれませんですね。


先の「心あるふるまいの人」の集合をA、「普通の心の人」の集合をB、
そして「心ないふるまいの人」の集合をCとすると、A:B:C=2:6:2てなふうに
言えたりするのかも。


ですが、昨今の日常的な感覚からすると、Bに比べてCが増えてるのでは?とも思ったり。
こういう話をする時には、翻ってはて自分はどうよ?ともなりますが、
個人的にはややAよりのBかなくらいに思っているとしても
あくまで主観で客観評価は異なりましょうから、判然とはしない。


まあ、この手のことは「自分のことは棚に上げて」しまわないと何も言えなくなりますから、
書くことが自戒を促すところもあるということで、ご容赦いただくとしましょう。


で、集合Cに属する人たちが増えているような…と感じたのは、

例によって通勤電車の車内なわけですけれど、
ざっと見て相当多くの人がスマホを見ているという状況からなのですね。


個人的には未だに旧態然とした携帯電話しか持っていませんし、
それの最も使う機能がおまけのカメラだという使用方法からしても、
何をそんなに眺めるものがあるんだろう??としか思えないところですが、
ツイッターのつぶやきだったり、ゲームであったり、動画であったり、
それぞれにいろいろあるんでしょう、きっと。


まあ、スマホで何を見てようが個人の勝手で構わないんですが、
問題はスマホを手にする人たちがそれぞれに画面が見やすいようなポーズをとると言うか、
目の前にある程度の空間を独占的に確保してしまうことなんですね。


そういう人たちの中には、

うっかりスマホを掲げる腕に触れようものなら露骨に嫌そうな顔をする御仁もいますけれど、
混んでる電車の中では相身互いで、
どこまで自分の空間なんつう(暗黙の)主張は

引っ込めてもらわないととてもじゃないけど乗ってられない…

てな想像は全く働かないのでしょうねえ。


これはスマホだからという話でなくって、
昔でも満員電車の中でやおら大きく新聞を広げて見るような輩はいましたので、

今始まった話じゃない。

でも、スマホは新聞を広げるような大袈裟さがないので気付かないのかもですが、
ごく少数だった新聞を広げる人数に比べてスマホを見てる人数の多さは、
その自己主張的占有空間を考えると大層なものになってきますですね。

(さもスマホが悪いように言ってますが、本を読むのも場所によりけりで同じですけれど)


とまれ、電車の中というパブリックな空間に

無理やりプライベートな空間を作り出そうとしてはいけんよと言い切るまではしませんが、

少なくとも混雑度合いには目配りをすることはできるだろうにと。
(乗った当初は空いていても、やがて混んできた時にもそのままの空間を確保しようとしてる…)


そもそも電車の混むのがよろしくない、

ついでに言えば通勤の長いのは何とかならんか…てなこと考えると、
結局は東京に人口集中しているのがよろしくないと、果てしない話になってしまいそう。


でも、それを措いておくと対症療法の域でしかないですが、とにかく混雑した電車の中では
「相身互い」「お互い様」との意識を誰もが持ったとしたら、
スマホを見るのに眼前に一定空間を確保しようとしたり、
でっかいザックを背負ったままで窮屈な思いを周囲にさせながら足元には空しい空間があったり、
奥の方が降りようとしている人がいるのに扉の前で仁王立ちで頑張ったり…てなことは
無くなっていくんではないですかね。


と、ここまで来て広島出張の帰途に出くわした踏んだり蹴ったりの一部を思い出しましたが、
京都駅で乗り込んできた年寄り(「お」を付ける気にもならない)グループは
新幹線があたかも自分たちだけの貸切バスでもあるかのように考えていたのでしょう。


というより、他に人がいることを全く考えてみることもなく、座席数以上の人間が集まって
飲みかつ大きな声で喋り、笑い…全くいやはやですが、

これもまた先ほどまでのことと同じですね。


とやかくとやかく言いましたですが、
それこそやっぱり心ある人には当たり前に過ぎることではありましょうけれど…。