このほど読み終えたばかりの本の話であります。

タイトルは「へるん先生の汽車旅行」、

日本にやってきたラフカディオ・ハーンはもっぱら「へるん先生」と呼ばれていたようで。


へるん先生の汽車旅行/芦原 伸


亜米利加ニモ負ケズ 」のアーサー・ビナードさんはラフカディオ・ハーンに私淑しているらしく、

ヴェルヌの八十日間世界一周に挑む 」でネリー・ブライに遅れをとったエリザベス・ビズランドが

ニューオリンズの新聞社に投稿し始めた頃、そこにはラフカディオ・ハーンが記者としていた…

と、このところ二度にわたってその名前に触れていたものですから、図書館で見かけたときに

つい手にとってしまったのが、この本であったわけです。


ラフカディオ・ハーンは、アイルランド人ながら英国軍人としてギリシアに派遣されていた父と

ギリシア人の母との間に生まれます(ラフカディオの命名はギリシアのレフカダ島生まれから)。


両親ともどもアイルランドに帰りますけれど、

地中海の島々と比べて厚い雲に覆われ、寒さの募る気候に母親は耐えかねて帰郷してしまう。

父親は父親で、ラフカディオを大叔母に預けたまま、放りっぱなし。


その大叔母もやがてラフカディオの世話を焼くだけの金銭的余裕もなくなり、

訪ねる先だけを教えられたラフカディオは、19歳でひとり

アメリカへの移民船に乗り込んだのでありました。


ですが、訪ねる先とは言ってもそうそう歓迎される状況でなかろうとは想像されること。

何しろアメリカに渡ること自体、多くの人たちには喰い詰めて新天地に活路を見出したいが故で

自分のことで精一杯でもあったでしょうから。


結果としてラフカディオは自活を余儀なくされ、シンシナティからニューオリンズ、

そしてニューヨークへとアメリカを転々としていくのですね。

とはいえ、ニューオリンズでの記者の仕事を擲ってニューヨークに出たのは

エリザベス・ビズランドを追ってということでもあったかと。


文学的素養も充分あり、衆目一致で美人の誉れ高いエリザベスは

「コスモポリタン」誌に記事を寄せるようになり、ニューヨーク社交界にも迎えられるわけですが、

ラフカディオにはそうした辺りとはどうも折り合いがよろしくないようで。


アイルランド人とギリシア人の混血であり、

大叔母から厳格なカトリック信仰を押しつけられてキリスト教には懐疑的になって、

しかも片目が不自由(それ故、ラフカディオの肖像写真は横顔しかないのだとか)で

158cmという(周囲に比べれば子供のような)背丈の癇癪持ち。

(日本との相性は、この背丈故かと思ってしまいますですね)


いくらエリザベスに思いを寄せようと叶わぬ恋というべきでしょうか。

ただエリザベスの側としては、ニューオリンズの先輩記者であるラフカディオのことを

終生変わらぬ友人と思っていたようで、後にはラフカディオ・ハーンの評伝を書き、

たまたま太平洋航路の船で乗り合わせた幣原喜重郎に対して

「日本人はなぜラフカディオ・ハーンのことを顧みないのか」と食いついたのだとか。


とまれ、ニューヨークでもなかなか仕事にありつけなかったラフカディオに

日本に取材してルポを書き送る仕事が舞い込みます。

日々の暮らしにも事欠く状態のラフカディオは、生活のために日本行きを決意するわけですね。


カナダ大陸横断鉄道で西へ、そして太平洋を渡って日本にやってくるも

同行のカメラマンの方が自分より報酬がいいことに気付いたラフカディオは

記事を送る契約を破棄してしまいますが、何の当てがあるわけでもない。


外国人同士のつながりから尋常中学校での英語教師の口がかかり、

教師などやったこともないラフカディオは松江に向かうことになりますが、

これがその後の小泉八雲誕生へとつながるとは不思議な縁と言いますか。


この経緯からしても、ラフカディオは明治政府が乞うて呼び寄せた「お雇い外国人」ではなく、

特段に秀でた技術があるわけでも、研究をしていたわけでもない「おしかけ外国人」だと

分かります。


それが、英語教師としては松江尋常中学校の後、熊本の第五高等学校(後の熊本大学)、

そして帝大で英文学の教鞭をとるようになるのですから、強運の持ち主とも言えましょう。


とまあ、ざっくりラフカディオ・ハーンの足取りを辿っただけでも、

年がら年中移動しているようにも思えるわけでして、

その足跡を著者がトレースするのとラフカディオ本人の旅とを交錯させてたどったのが本書。

筆者がラフカディオ・ハーンを指して「永遠のさすらい人」というのも、よく分かるところです。


デラシネのラフカディオ・ハーンにとって、結果、日本は終の棲家になりましたけれど、

一時滞在の「お雇い外国人」とは異なって、進んで日本家屋に住い、進んで日本食を食べ、

とことん「日本」なるものにこだわっていたようすでもありますね。


明治の近代化がどんどん進む一方で、

江戸の残照がどんどん失われていくことを目の当たりにし、

むしろ外国人の目線だからこそ「これでいいの?」という疑問を抱えていたのやもしれません。


後にブルーノ・タウト が指摘したような「日本の独自性」の行く末が

ラフカディオ・ハーン、小泉八雲には大きな気掛かりでもあったのでしょう。