先に見ました通り、興津宿 にあった二つの本陣、東本陣、西本陣ともども、
今ではその跡地を示す小さな石のサインポールがあるだけですけれど、
実はこれから少しばかり細かく触れようとしているのは、興津宿の脇本陣だったところ。


往時の本陣からすれば格落ちとも言えましょうけれど、
両本陣が今は位牌だけみたいな姿になり変ってしまっていることに比べ、
残されたものがあるというだけでも、脇本陣の歴代当主がなかなかにやり手だったのかも。
だいたい「脇本陣跡」を示す石柱だけでも、両本陣のものより格段に大きいという。


興津宿脇本陣跡


で、ここに記されている「水口屋」というのが、脇本陣となっていた旅籠の屋号でありますが、
ここで水口屋の来歴をひとくさり(と、解説板の受け売りですが…)。


元は武田信玄 に仕えていた家臣であった人が、

たぶん富士川沿いに身延道を通って興津にたどりついたのでしょう、
この地に移り住んで、塩や魚などを買い付けて甲州へと送る商いを始めたそう
な。


交通の要衝であっただけに旅人の往来もままあったのか、

ほどなくして初めて旅人を泊めたのが1592年(天正10年)とか。


やがて江戸期には脇本陣としてすっかり宿屋になったわけですが、
大名家の参勤交代やはたまた庶民の伊勢詣でなどの賑わいは、

明治になって商人の往来にとってかわられていったといいます。


やがて興津の風光明媚さを目にとめた政界、財界の大立者が水口屋を贔屓に度々宿泊し、
中には西園寺公望や井上馨のように別荘を建ててしまう人たちも出てきたという。


では、お得意様が別荘を建てては宿屋は儲からんだろうと思うのが素人の浅はかさ(?)、
例えば別荘に籠る西園寺のもとには是非とも元老のご意見を伺いたいと

続々やってくる要人から有象無象まであたかも順番待ちをするかのように、

水口屋に泊まって西園寺と話のできる機会を待ったと言います。


いつ時間が空いて、あるいは気が向いて「会おう」と言ってもらえるか分からない中では、
いたずらに水口屋での長逗留を強いられて人たちなんかもいたことでありましょうね。
ちなみに要人が来ていたとなれば、そこにもお付きの人々がいるわけですから、
何にせよ水口屋は賑わっていたことでしょう。


と、この最後んところの話は解説板ではなくって、

一碧楼水口屋ギャラリーの受付の方に伺いました。


こうした元の脇本陣、水口屋は老舗として宿屋を続きましたが、1985年に廃業、
跡地を譲られた鈴与(株)(お隣清水が本社の物流大手、今では旅客機まで飛ばしている)が

自社研修センター(上の写真の奥の建物)を建てるとともに、

敷地内の一部にギャラリーを設け、水口屋にまつわる歴史的資料の保管・展示を行っている…

と、一碧楼水口屋ギャラリーはそういう所なわけです。


一碧楼水口屋ギャラリー


古い資料を展示している施設には珍しく「写真は撮って構いません」とのことでしたので、
ついついあれもこれもと思いましたですが、これでも写りの良さそうな辺りを

見つくろってみるとしますですかね。


一碧楼水口屋ギャラリー展示室


内部の一角はこんなふうですけれど、まあ美術品ではないので、
ぱっと見、さほどに目を惹くものではありませんですね。


ですが、一部に寄って行ってみれば、手紙を軸装したものだと分かります。
そして(見えにくいとは思いますが)左側の2行は何とか判読できるような。
曰く「十月十四日 西園寺 水口屋様」と。


水口屋宛西園寺公望書状


要は西園寺公望が水口屋へ宛てて「この冬も宜しく」と

避寒のための逗留予約を早くも10月に依頼しているという手紙でありました。


何でもこれは1918年(大正7年)のものだそうで、

この時の西園寺は12月1日から翌年1月6日までしたとのこと。


避寒と言いつつ、ずいぶん早くに興津を離れてしまったのだなと思ったところが、
この(1919年)1月中旬、第一次大戦の戦後処理をめぐるパリ講和会議に
西園寺は日本の首席全権として出席することになっていて、やむを得ずであったのだとか。


後に第二次大戦 に繋がる火種を残してパリ講和会議は終わるわけですけれど、
この時の日本もすでに対中国政策などに絡んで孤立化も道を歩み始めたことを
諸外国に印象付ける結果になってしまう。

さてはて西園寺は、水口屋で年越し避寒をしながら、何を思っていたのでしょうねえ…。


ちなみに水口屋のお得意先帳というのも展示されていました。
これまた判読しがたいところながら、一部を拡大してみます。


水口屋お得意先帳


公爵 近衛文麿、男爵 若槻礼次郎、男爵 幣原喜重郎…
何だか日本近代史が身近になる気がしますですね。
この方面ばかりの名前を挙げると、ちと偏りが感じられますので、
夏目漱石 (ここにも!)や黒田清輝といった文化人なども宿泊客に名を連ねたそうでありますよ。


ところで、こうしたところばかりを見ていきますと、後に廃業とはなるものの、

水口屋はいつも順風満帆であったかのように思ってしまいますが、
やはり江戸から明治への転換期には参勤交代というドル箱が亡くなって、

かなり営業努力が必要だったようす。
そうしたことの一つが伊勢講の人々の取り込みであったと。


東海道沿道の旅館をグループ化して一新講社という組合組織を作り、
「お伊勢参りの行き帰りには是非一新講社のお宿をどうぞ」というところでしょうか。

水口屋宛神宮教院申付


「東海道遠州より伊勢路、京阪に至るまで定宿改正係を申し付くる」ことが
神宮教院(伊勢神宮)から水口屋当主宛ての書状に書かれているとなれば、
お伊勢様公認の宿みたいな感じだったのですかね。


一方で、太平洋戦争後には占領軍の一員として訪れたアメリカ人が
「JAPANESE INN~東海道の宿 水口屋ものがたり」なる本を刊行して、
その名は海外にも知れ渡ることになったりもするわけですが、
時代の趨勢には逆らえず、やがて客足は減り…。


とはいえ、廃業してしまうとは…と受付の方に尋ねてみたところ、
これまたひとつの側面を話してくれましたですよ。


興津に着いてすぐに感じたことですが、海と山が何とも迫っている土地だなと。

由比宿あたりも蒲原駅から由比駅に近づくほどにそんな感じになっていき、

薩埵峠が海に迫り出してピークを迎えるのでしょうけれど。


そうした場所であって人や物の往来が増える度に、興津を通り抜けるのが難儀のもとになって、
まずは山側に東海道線が通ったのは古い話としても、新幹線も東名高速も山側に出来、
もうこれ以上山側はどうにもしようがないとなると、海っぺりの方にバイパスができた。

結果、どうなったかというと全て興津をさっさと通り過ぎるのに役立ったわけですね。


おまけに海沿いのバイパスに加え、港のコンテナヤードが広がった関係か、
今や地元民もおいそれと海に近づくことはできなくなってしまったのだとか。

かつて皇太子殿下が海水浴あそばしたと碑に残る場所でありますのに。


と、一碧楼水口屋ギャラリーと言いながら、一碧楼の部分に全く触れてなかったですが、
水口屋から海を見晴らせば、空と海とが溶けあった紺碧一色に見えると
後藤象二郎が名付けと伝えられるそうな。


それほどの景観を誇った興津の老舗宿も、先に見ましたように

展望台の眺めでもバイパスの車の流れとガントリー・クレーンばかり目につくような変化で
もはや立ちいかなくなったということでもありましょうか。


ま、資料が残されており、これを見られるだけでもありがたいと思わねばなりませんね…。