映画「シャーロック・ホームズの冒険」がパスティーシュで、
映画「金田一耕助の冒険」がパロディならば、これはオマージュということになりましょうかね。
「オスカー・ワイルドとキャンドルライト殺人事件」というミステリー小説の話であります。


オスカー・ワイルドとキャンドルライト殺人事件/国書刊行会


もっともオスカー・ワイルドへのオマージュであるとして、対象はその作品ではなく、
かなり特異な紳士と思しきオスカー・ワイルドその人へのオマージュとでもいいましょうか。


オスカー・ワイルドがとあるフラットを訪ねていくと、
そこには裸にされ、喉元をざっくりと斬られた少年がキャンドルライトに囲まれて

亡くなっているのを発見。

一端はその場を離れるものの、殺された少年とは予て知り合いであったオスカーは
犯人を突き止めなくては!との決意から犯行現場に戻ったときには、
部屋は少年の遺体もキャンドルライトも一切が消え去ってしまっていた…。


友人の助言でスコットランド・ヤードの警部を訪ねたものの、
死体が無いのでは捜査を始めようがないと言われ、やはり自身が謎を解くしかないと思い立ち、
運動が嫌いであるにも関わらず、精力的に動き回ったりすることになるのですね。


で、この事件の一部始終を書きとめているのが親友のロバート・シェラードという、
実際にオスカー・ワイルドに関わる著作を5冊も残した実在の人物でして、
行動するオスカー・ワイルドと書きとめるロバ-ト・シェラードのコンビは、いわでもがなながら
あたかもシャーロック・ホームズ とワトソン博士の如しでありますね。


でもって、こうした連想が読者にとって単なる思い付きではないことに、
先にスコットランド・ヤードを訪ねるよう、オスカー・ワイルドに勧めた友人というのが、
何とまあ!シャーロック・ホームズの生みの親、アーサー・コナン・ドイルなのですよ。


これまた実際にオスカー・ワイルドとコナン・ドイルは友人であったようで、
二人に執筆依頼をしようとした出版社からの招かれたディナーの場で顔を合わせ、

すぐに意気投合し、友人となったのだとか。


ちなみにこの時の執筆依頼で、後に「ドリアン・グレイの肖像」としてまとまる小説を
オスカーは書き始め、キャンドルライト事件の解決と同時進行で書き続けている設定…となれば、
本作の中にも当然にドリアン・グレイの影がチラついても同然のことかと。


一方で、コナン・ドイルはホームズものを書きだしたの話であって、
本作の中でオスカー・ワイルドは「四つの署名」を読んでは、
あれこれホームズまがいの推理を働かせることに。


ですが、こういってはオスカー・ワイルドがホームズを真似ているかのようですけれど、
(どこまで本当のことで、どこまでが実際の逸話なのかは判然としないものの)
こうしたオスカーの鋭い観察眼を知って(ホームズのモデルはドイルの恩師ベル教授ながら)、
あんまり動きたがらないけれど大層頭の働く人物としてマイクロフト(シャーロックの兄)を
コナン・ドイルは創造する…ということになってます。


また、主人公にも陰の部分が必要だろうとオスカーがアドバイスしたことを受けて、
ホームズをコカイン常習者(常習とは言い過ぎですかね…)という要素を加え、
反面、キャンドルライト殺人事件の捜査(?)にあたってオスカーは
あたかもベイカー・ストリート・イレギュラーズのように街の子どもたちを偵察隊に使っていたりと
お好みによってはついついニヤつくような要素がてんこ盛りになってました。


これが、映画「金田一耕助の冒険」のように相互に関わりない小ネタを

ばらばらと散りばめられるのとは大いに印象が異なるものであることは、

容易に想像していただけるところかと。


推理小説として見たときには

「なるほど、やはりそう来たか」と定石の意外な展開が用意されているものの、
そこに至る過程は、捜査段階を謎解きの方向で追って行くという読み方(書かれ方?)よりも、
オスカー・ワイルドの際立つ個性がいずこでも浮き彫りになるといったふうで、
およそミステリーとは別の読み方をしてしまうような。


そんなオスカー・ワイルドの個性の発露として、

柔らかい皮肉をひとつだけ引用してみましょうかね。
たぶん、本当に言ったことではないのでしょうけれど、読んでいる限りオスカーらしいというか。
大英帝国の矜持が感じられるとも(オスカー・ワイルドはアイルランド生まれですが)。

ロバート、アメリカ人は気の毒だよ。彼らのビルディングが高くなればなるほど、彼らのモラルは低くなるんだ。これは、確かだよ。