時代が行ったり来たりになりますが、再び幕末へと飛ぶことになります。
1853年の黒船来航はご存知のとおり武力を背景に開国を求める圧力外交だったわけで、
大砲連ねてずかずかと江戸湾奥深くまで入り込まれてはなすすべもない。
そこで江戸湾に人工島を築いて砲台とすることに決したのですが、
これが今でもいくつか残る御台場でありますね。
この御台場築造の指揮をとったのが江川坦庵であったそうな。
もちろん砲台だけでは役に立ちませんから、大砲作りにも携わります。
先に訪ねた江川邸
では木製の大砲(らしきもの)が置かれていたりしたところをみると
もしかすると外国勢力のモノマネで大砲を木で作るなんつうこともあったのかもですが、
それで敵方の鉄製に敵うわけもなく、御台場の大砲は当然に鉄で作らねばならない。
当然に鉄を作り出し、それを加工する必要が出てくるのでして、
17~18世紀のヨーロッパで用いられた溶解炉である反射炉を建設する、
これもまた江川坦庵に委ねられたと言いますから、
よほどに幕府の信望厚い人物だったろうと窺えます。
ですが、技術の裏付けが無い中での試行錯誤でしたでしょうから順調に進むはずもなく、
坦庵は完成を見ずに亡くなり、息子の英敏によって引き継がれたとのこと。
工場萌えの世界ではありませんが、今見ても立派な姿をしているではありませんか。
すっくと立ち上がる部分が目立ちますけれど、そこは単に煙突であって肝心なのは足元の部分。
左手に見えるドーム型に開いた口(鋳口)から溶解させる銑鉄等を入れたそうです。
炉の内部は(下の図のように)天井の低いドーム型になっており、
ここで熱が反射されることによって炉内の温度が上がり、鉄を溶解する…で、
反射炉というわけですね。
図でいうと、鋳口の下から左側につながる炉床がやや左下がりに傾斜しており、
溶けた鉄がそこを流れて、出口で待ち構える大砲の鋳型に流し込まれるようになってます。
こうして大砲の型をした鉄の塊ができるわけですが、
当時この反射炉の敷地内には大砲の加工場も併設されていて(今はない)、
近くを流れる古川の水で水車を回し、これを動力に砲身に穴を開けていったのだとか。
水車の力で鉄に穴を開ける?と思ってしまったように、何カ月も掛かる作業であったそうですよ。
当時の状況で、武力には武力で対抗するのは現実的ではないな…と今でこそ思うものの、
携わった人たちの創意工夫といいましょうか、大変なものがあるなとの思いも。
同時期に佐賀藩や萩藩などでも反射炉が作られたそうですが、
「実際に稼働した反射炉が現存している」のは稀有な例なのだとか。
それだけに日本の近代化、工業化の礎ともなる遺産なのでしょうけれど、
どうもその後の近代化、工業化の果てに日本が辿った道は喜べるものではないなと。
ですが、当時としてこうしたものを作り上げた江川英龍・英敏父子は
日本の新しい夜明けを見たことでありましょうね。