中伊豆巡りのまず始めとしては、やはり「一度は行かねば!」と思っていたところから。
もっとも、東京から三島経由でたどりつく一番手前の場所であったからこそでもあるのですが、
伊豆箱根鉄道の韮山駅から歩くと20分ほどになりましょうか、訪ねた先は「江川邸」であります。


江川邸 表門


とは言ってみたものの、
やおら江川邸といったところで「江川さんちをお訪ねして…」とあたかも知人宅訪問めいたふう。
ご存知の方よりもそうでない方の方が多いのかもしれんなぁと思ったものですから、
タイトルにもわざわざ重要文化財なんつう文字を飾ってしまいましたですよ。


歴史の舞台としての伊豆はあれこれの逸話が残る場所ですけれど、
その辺りは後から順々に触れるとして、江戸時代のお話。


徳川幕府の成立後伊豆の地は(駿府にも近いからでしょうか)幕府直轄の天領になるのでして、
そうなると藩として統治する大名はおりませんので、幕府任命の代官が治めることになる。
その代官職を世襲したのが韮山に在した江川家で、代々当主は太郎左衛門を名乗っていたそうな。


ですから、江川太郎左衛門と聞けば幕末前夜に大活躍する人物が浮かぶところながら、
実は江川太郎左衛門では歴代当主の誰を指すかはっきりしないわけで、
ちゃあんと江川太郎左衛門英龍(1801~1855)と言わねばいけんようですね。


ですが、ここで(正式名称は長いので号の坦庵を使いまして江川坦庵でいきますが)
江川坦庵の事績をつぶさに挙げていくと長くなりますし、後から訪ねるところに譲るとして、
まずは江川家のことですけれど、(伝承のようですが)清和源氏に連なる古い家柄とのこと。


元は京にいたものの、保元の乱(1156)で崇徳上皇側に付いたがために
敗戦の煽りを受けて伊豆に逃れてきたのだとか。


伊豆は流刑地の中でも平安期には遠流の地とされていましたから都落ちも甚だしいわけで、
それだけ残党狩りが厳しかったりもしたのでしょうね。


ちなみに保元の乱で勝ち組に乗ったのが平清盛と源義朝でしたけれど、
両雄並び立たずであったか、やがて起こった平治の乱(1160年)で源氏は一掃され、
清盛のもと平家全盛が謳歌されるようになるという。


江川家の祖が伊豆にいたのを知らずにいたのか、
平治の乱後に辛うじて死を免れた源頼朝(義朝の子)は伊豆に流されてくるわけですが、
1180年の頼朝挙兵にあたっては江川家からも駆け付けている由。


その後の世渡りには万全を期したのか、鎌倉期、室町期には伊豆の豪族として生き抜き、
戦国の世には後北条氏の帷幕に名を連ねていたようす。


そして迎えた江戸期にはさきほど触れたとおりに、代官職を世襲する家となっていくのですね。

と、長い説明になってしまってますが、そうした江川家の屋敷を訪ねた…と、そういうわけです。


が、かつてのTV時代劇で代官といえば、もっぱら悪徳商人と結託して私腹を肥やす人物、

料簡が狭く、権威ばかりを笠に着るような人物とのイメージばかり。


それだけに「代官がなんぼのもの?」と思っていたわけですけれど、いやあどうしてどうして。

上の表門もそうですが、作りは田舎家ふうですが豪壮な屋敷ではありませんか。


江川邸 母屋


質実剛健を家にしたようなもので、広い室内には

高島流砲術を学んだ坦庵が後進の指導に当たる教室とした部屋もあり、

佐久間象山なども教えを乞うた一人であったそうでありますよ。


大砲に関しては坦庵自ら製作にも携わったわけで、

蔵の中には「大砲御製造場 御用」なる幟旗があるのも当然かと。


「大砲御製造場 御用」の幟旗


ところで、この場所での展示で認識を新たにしたんですが、

TV時代劇でのいわゆる「お代官さま」的なところとは大いに異なり、

韮山代官は伊豆ばかりか周辺諸国の管轄地も含めて、

10万石もの石高に及ぶ土地を幕府に代わって治めていたのとか。


当然に全て自分の財貨ではないとはいえ、

事業規模の大きさは下手な大名を上回るもので、

とても茶店の二階で悪徳商人と密談してるようなレベルではないなと思ったものでありました。