伊豆富士見紀行と言いながら

「富士山が出てこないではないか?!」状態ですが、まあこれからです(笑)。


1160年に起こった平治の乱では源氏方がぼろ負けし、

敗軍の将・源義朝は落ち延びる途中で捕えられ、斬首されます。

息子の義平、朝長もともども生き長らえることはできませんでした。


当時13歳の三男・頼朝も六波羅へと引っ立てられていきますが、

「いたいけな少年をむざむざ死に追いやるのは…」と平清盛の継母である池禅尼らが助命を願い出、

清盛も保元の乱後に苛烈を極めた残党狩りが信西の信望を貶めたことから教訓を感じてか、

頼朝は伊豆へと流されることになったのですね。


そして、その頼朝が配流されていた場所、

それが後の江戸の世に韮山代官世襲となる江川家 からも程近い

蛭ヶ小島であったと伝えられているのですよ。


蛭ヶ小島の頼朝・政子像


頼朝が流され来た当時は、近くを流れる狩野川の中州で

低い湿地であるが故に蛭が見られることから蛭ヶ小島と言われる土地。

今では狩野川の流れからは離れ、山がちな伊豆にあって半島の付け根に広がる田方平野を

一望する場所となってますですね。


ここで頼朝が一念発起、挙兵をするのが1180年ですから、

ゆうに20年の月日が流れたわけですが、今より人の寿命が短かった当時、

頼朝の一念発起はずいぶん遅いように思われなくもない。


が、そこへ登場するのが、

後に鎌倉幕府の初代執権となる北条時政の娘・政子なのでありますよ。

ここでこたびの同行者からは「政子と言えば岩下志麻を思い出す」と、

(見ていないので分かりませんが)たぶん昔のNHK大河ドラマの印象でありましょう。


ですが、個人的に伊豆で「まさこ」となると冨士眞奈美さんですなぁ。

「細うで繁盛記」の正子ですから、まさこ違いもはなはだしい…(笑)。


それはともかく配流の地は伊豆の豪族・北条氏の地所とも近く、

頼朝と政子は心を通わせるようになっていったようなのですが、

こうしたときに平家方から送られている代官代わりの役割であった山木兼隆と

政子の縁組が持ち上がる。


話は進んで婚儀の日当日、何と政子は逃げ出してしまうのですね。

山木兼隆与する平家方の面目は丸つぶれ、

こうしたことも長年の流人生活でおっとりしてしまった頼朝の重い腰(?)を

挙げさせることになったのやも。


系列的には平家側である北条氏ながら、

父・時政は頼朝挙兵に従って、幕府では初代執権になるとは先に触れたとおり。

となると、父娘語らっての出来仕合かとも思ってしまうところではなかろうかと。


そして、いざ挙兵の暁にまず攻め立てられ、滅ぼされたのが山木兼隆とあっては

さすがにいささかの同情を禁じ得ないところかと。


ちなみに、山木の屋敷跡も江川邸の裏山あたりとされていて、

なんだか仲の悪いご近所の話か?とも思われる状況ではありませんか。


とまれ、源氏の再興(といっても、とても短く北条氏の栄華というべきか…)は

この地から始まったわけでして、頼朝・政子は天下の覇権をも夢に描いていたのでしょうか。


建てられた頼朝・政子像の裏側に廻り、二人が見つめる先を眺めてみれば、

富士のお山にそうした大望の願掛けをしているようにも見える…そんな蛭ヶ小島でありました。



頼朝・政子は富士を眺めて…