植田正治という写真家のことを知ったのは、

たぶんNHKの「日曜美術館」であったような…もうずいぶんと前だったと思いますが。


その一見してシュールな作品、そして作品作りにおける相当な作りこみ具合は、

ありのままの瞬間を切り取る写真の特性とは全く違うところにある写真作品でもあろうかと

見られる機会を待っていたような次第。


それが生誕100年の機(といっても1913年生まれですから、去年なんですが)に

「植田正治のつくりかた」と題された展覧会が開催される!

まさに植田作品へのアプローチとしてはうってつけのタイトルとも思われ、

「こりゃあ、見ねば!」と思ったわけです。

ですが、会期は昨日までですから、危うく見逃すところだったのですけれど。


「植田正治のつくりかた」展@東京ステーションギャラリー


鳥取生まれの植田作品には、その背景として砂丘がよく使われていますけれど、

遠目には単調で無機質なふうにも見える背景が植田作品には実にマッチしとりますですね。


単にべたな背景ならばスタジオで撮っても同じとも言えましょうが、

実は近寄れば風紋やら何やらがあって人工的でも無機質でもない自然の下におかれた砂丘、

このアンバランスな感じが相乗効果につながるわけです。


そこへもってきて、作者は作品づくりに臨む姿勢として、

「ただ印画紙上にレンズを通して『描く』ことに専念するだけ」てなことを言ってます。


うっかりすると、「レンズを通して…専念する」ことを

まさにごくごく普通の写真ではないかというふうに読んでしまうやもですが、

お気づきのように鍵になるのは「描く」ということ。


「描く」ことは作為ですから。

レンズを通して見たままを印画紙に焼き付けることは違うわけですね。


例えばですが、かつてオランダを中心にその写実性を競うように描かれた静物画も

ありのままのようでいて、果実やら野菜やら魚やら器やらといったものの配し方には

画家の作為が思い切り反映してますが、植田作品も同様かと。


植田正治「パパトママとコドモたち」(本展フライヤーより)


これは代表作のひとつ、「パパとママとコドモたち」ですけれど、

家族の集合写真でありながら、それぞれがでんでばらばらなしぐさをしながら

微妙な距離を開けて並んでいるという。


その奇妙さにばかりついつい目が行ってしまうものの、

被写体をこうしたふうに配置するには、先程触れた静物画にも似た作為があるわけですね。


深い意図(あるとしてですが)までは分かりませんけれれど、

少なくとも真ん中の自転車にまたがった少年の頭を底にして

左右に立つパパとママの頭頂部から鈍角が描かれていることは見て取れる。


植田作品が「演出写真」と言われる由縁でもありますね。

そしてこの図形的な要素は、こうした明らかな演出ではなく、

そこにあるものを切り取ったと思える写真からも窺うことができます。


時に曲線であったり、斜線であったりしますけれど、

それぞれにこだわりの結果であろうかと。

さも一期一会的な瞬間のようでいて、実はそうではない(と思う)。

アンリ・カルティエ=ブレッソンの「サン=ラザール駅裏、パリ、フランス」なんかを

思いだすところではないかと。


また、場違いなものの組み合わさったり、唐突に配置されたりという点では

むしろマグリットやダリの絵画に通ずるものを感じます。

最初に見たときに「シュールな作品」と思ったのもこの辺ですね。


植田正治「砂漠モード」より

とまあ、実に深読みしがいのある植田作品の数々。

たくさんの作品を見ることができましたけれど、

やがて一度は植田正治写真美術館にも行かねばなりませんね、

鳥取なのでかなり思い切りが必要ではありますが…。