この間、江戸狩野の展覧会 を見てきました折に
狩野一族をのことを「絵も巧ければ世渡りも上手と思われる一団」と書きましたけれど、
徳川の世になって江戸へ本拠を移した「江戸狩野」の行動は、
元来室町将軍家の御用絵師を務め、その後も信長、秀吉という天下人に寄り添ってきた
狩野派らしい処世と思われます。


ですが、それでは京に残った一派は「江戸狩野」と何故に袂を分かつことになったのか?
こぞって徳川将軍家の絵師グループでいた方が安泰だったのではないか?
てなふうにも考えていたところ、理解の助けになりそうな本を見つけたものですから、
読んでおりましたですよ。題して「京狩野三代 生き残りの物語」というものです。


京狩野三代 生き残りの物語: 山楽・山雪・永納と九条幸家/五十嵐 公一


ここでの京狩野三代とは、狩野探幽ほかが江戸へ移った際に居残り、
「京狩野」の始祖となった狩野山楽、その弟子で娘婿の狩野山雪、
そしてその息子である狩野永納の三代のこと。
結果、徳川二百七十年を生き延びることになる「京狩野」最初の三代であります。


日本画のことも狩野派のことも詳しくはないので、
読み進めながら事あるごとに「ほぉ~!」と思うわけですが、
まず最初に「京狩野」の始祖、狩野山楽はいわゆる一族のものではなかったのかと。


狩野姓の名乗りを許されるのは、弟子であっても相当な腕前と想像されますが、
一族でないなら京での居残りもしやすいかと思ったり。


もともと山楽(って、絵師になる前からこの名前であるはずもありませんが)は

秀吉に仕える小者のようなことをしていたようなんですが、生来絵を描くのは好きだったようで、

ある時待ちの時間を利用して地面に馬の絵を描いておりますと、

これを見た秀吉がなぁんと当時の最高峰、狩野永徳(1543-90)に弟子入りをさせたというのですね。

(こうした部分は雪舟の逸話からのぱくりなのでは?…)


狩野派とひと口に言ってしまいますが、そこはルーベンス工房のようなところなのか、
抱えた絵師がたくさんいて、人気も腕もあらばこそ次々舞い込む仕事を分業でこなした感がある。
のちの山楽もこうした中で腕を磨いて、やがて狩野姓を許されるまでになったのだとか。


ただ、大河ドラマなどでよく描きだされる秀吉の性格ですから、
気に入ったとなれば相手の都合など関係なく好きなように依頼(命令)してくるんですな。
「どこそこの障壁画を」、「屏風を一双」、「こちらには襖絵を」てな具合。


どうやら狩野永徳はこうしたことから過労死したらしい…てな話もあるようで。

そして永徳の子、光信、孝信も比較的早くに亡くなってしまったことから、
光信の子・探幽が江戸幕府御用絵師に任ぜられたのが16歳てなことにもなってしまうわけです。


こうしたことから、もしかすると探幽は偉大な祖父を(場合によっては父や叔父もと考えたかも)
死に至らしめた豊臣家から離れられてホッとしていたかもしれんですねえ。


一方で、狩野山楽はといえば、
好きな絵を生業にして狩野を名乗れるようにまで腕をあげられたのは、何より秀吉のおかげ。
秀吉が亡くなり、天下が徳川のものとなって幕府が江戸に行ってしまったとしても、
豊臣家への恩顧忘るまじと居残りを決めたのではなかろうかと。


ですが、やがて大坂の陣で豊臣家は滅亡し、幕府側による残党狩りが始まると
あろうことか、狩野山楽にも討手が及び、命からがら逃げ出すことに。


狩野派の絵師がまとめて江戸へ移ったというに、山楽は豊家恩顧の輩に相違あるまい!
てなことでしょうか、狩野という名前を背負う目立った存在だからということもありますかね。


ところが、程なく「山楽、お咎めなし」との寛大な処置が下るのですが、
ここで山楽助命の立役者とされるのが、摂関家のひとつ、九条家の当主、九条幸家であったと。


当の九条幸家ですが、豊臣完子が嫁いできていた…となれば、
山楽にとってはここでも豊臣繋がりの恩義であったかと思ってしまうところですけれど、
実はこの完子さん、朝鮮半島への出兵時の痛手が元で亡くなってしまう豊臣秀勝の娘さん…
ということは?


そうなんですよね、秀勝亡き後、徳川秀忠に輿入れしていた江の娘さんなわけですよ。
摂関家の総領に豊臣完子で釣り合うの?とも思ったですが、
生みの親が江戸幕府二代将軍の妻であり、育ての親が淀殿とあっては否やはない、
というより、江戸の側にも大坂の側にも、いずれにもコネクションを持つという
(政略上)他に代え難い存在でもあったようです。


で、こうしたコネクションを活かして、予て繋がりのある将軍秀忠に
山楽の助命を願い出たのではないかと推測されるそうなんですよ。
凄い話ではありませんか。


とはいえ、いかに狩野派とはいえ、

一介の絵師の助命を摂関家当主が将軍に願い出るはずもない。
さぞや山楽の絵の腕前を買っていたのでありましょうね。


この九条幸家と山楽との関係の始まりはといえば、やはり完子さん絡みになります。
幸家・完子の婚礼にあたって、育ての親・淀殿はなぁんと!

九条家新御殿造営を婚礼祝いにするのですね。御殿をぽいっと!


淀殿の権勢、推して知るべしでありますから、娘に恥じないような御殿とすべく
さまざまな面で口聞きをした中に、御殿障壁画などの制作に狩野山楽を入れたという。


実は山楽は秀吉恩顧であるばかりか、

父親が淀殿の実家である浅井家に仕えていたことがあったようで、
「そうか、そうか、父上(浅井長政)に仕えた者の息子であったか、山楽は!」と
淀殿が言ったとか(言わないとか…)。


とまれ、この仕事で一気に幸家の信頼を得た山楽は、
その後も何くれとなく幸家の恩に報いるべく、精一杯仕事に励んだそうでありますよ。
おかげて幸家の血筋に絡む別の摂関家や門跡寺院などからも仕事が得られ、
「京狩野」の名が残る礎を築けたのだそうな。


本のタイトルは「京狩野三代」ですから、
こののち山雪、永納と九条幸家(とその係累)との関わりが示されていくのですが、
余りに長くなりますればお話はこのへんにして、後は本そのものに当たっていただければ。


知らないことだらけだからやもですが、
とにかく「へえ~」とか「ほお~」とか満載の興味深い本でありましたですよ。