イスタンブールは五輪招致に失敗しましたけれど…といって

オリンピックの話をしようというわけではありませんで、
トルコを舞台にしたドキュメンタリー映画を見てきたとまあ、そういうお話であります。


映画「トラブゾン狂騒曲」


タイトルは「トラブゾン狂騒曲」というもの。
そして「小さな村の大きなゴミ騒動」という副題が付けられているあたり、
また「狂騒曲」という言い回しからしても、いささかコミカル・タッチを予想したり。


確かに「笑っちゃう」側面無きにしも非ずですけれど、
面白おかしいというよりも呆れかえって笑うしかないといったところでしょうか。
これは映画に映し出された当事者たちにとっても、
呆れかえってという点では同じでしょうねえ。


トルコの黒海に面したトラブゾンという地域。
海からせり上がった山間部では茶葉の栽培が広く行われ、緑豊かな土地柄なのですが、
その一角で露天掘りされていた銅の採掘跡が巨大な窪地としてしばらく放置されていたのですね。


予てゴミ処理問題に苦慮していたトルコ政府が

この窪地をてっとり早いゴミ処分場にすることに決定したことから
周辺住民は大変な目に合うことになるという。


なにしろゴミ処分場とはいえ、焼却灰になっているわけでもなく、
日本でいうところの燃えるゴミも燃えないゴミも何もかもがいっしょくたになって持ち込まれ、
それをただ窪地に均していくだけという状態。


住民への約束では「臭いは出さない」ということだったらしいのですが、
生ゴミは腐敗するし、化学製品の残留物なんかも成分がどういうものかに関わらず交じりあうし、
臭い付き映画だったら見ていられなかったでありましょう。


これへの対策というのが自動の噴霧器のようなもので香水を撒くというのですから、

口あんぐりですね。


そして、処分場の下にはビニールシートを敷いてはあるものの、

たちどころにあちこちがぼろぼろとなって、
何だか分からないものを含んだ水分がどんどん地面にしみ込んでいき、

山あいの小川に流れ込んでしまう。

渓流のような場所が泡だらけになってしまうばかりか、海へも流れ込んでいくわけです。


住民は処分場の担当者に掛け合うものの、埒が明かない。
視察に来た知事に談判するが、相手にされない(知事曰く「私には、臭わない」とか)。


そもそも住民への約束が守られる保証がないからと処分場作りに待ったを掛けようとした市長が
逆に国から告訴されて敗訴するという、これまた訳の分からない経緯の上にこのありさまなのですね。


こうした「結局のところ海へ垂れ流し」状態を見ていると、
どこかよその国の話ではないというふうにピンと来てしまう現実もありますが、
ゴミ対策という点ではさらに卑近なこととして、子供の頃を思い出すのでありますよ。


1971年(昭和46年)、当時の美濃部都知事が議会での所信表明で「ゴミ戦争宣言」を出すような状況。
その頃は東京23区のゴミの7割が江東区に持ち込まれており、
「夢の島」という笑うしかないネーミングの場所で埋め立てられていたのですね。


トラブゾン同様に焼却なんぞされていない「まんま」を埋めちゃあ、土を掛けという繰り返し。

これ以上持ち込まれてはかなわんと江東区の住民はゴミ運搬車を阻止する行動に出る一方で、
他の処理場として計画された杉並区高井戸ではやはり住民が建設阻止を訴えるという事態にもなってました。


その「夢の島」からおよそ2Kmくらい北の辺りに住んでおりましたですが、
さすがに臭いこそ届かないものの、異常に蝿が多い中で暮らしていましたですねえ。
いわゆる団地の、階段の踊り場ごとに複数の大きな蝿がぐるぐる飛びまわってました。


それだけと言えばそれだけですけれど、

映画の中では本当に目と鼻の先に処分場があるという状況の酷さを
思わずにはいられないわけです。


40年余り経った今でもゴミ問題は無くなったわけではありませんけれど、
少なくとも回収されたまんまではなく焼却灰としての処分にはなっているだけ、

当時よりはましかなと。


ところが、近年になってもトルコでは(たぶんトルコだけは無いのでしょうけれど)

「まんま埋め立て」が行われ、住民の健康と周囲の環境を脅かすようなことが行われているとは。


何かしらの変化は先に経験した国のあとを

後から別の国がなぞるように経験していくようなところがあるのかもですが、
ゴミの処分にあたっては「まんま埋め立て」がよろしくないと分かっている国があるのですから、
何もその部分を他の国が同じようになぞる必要はないのではないですかね。
繰り返さなくてもいいことを、どうしてまた…と思ってしまうところでありますよ。