ついつい口をついて出るメロディーなんつうのが時折ありますですね。
実のところ、先日の演奏会でバーンスタインの「シンフォニック・ダンス」
を聴いて以来、
その中のフレーズをあれこれ口ずさんでしまっているという。
ご存知のとおり、この曲はミュージカル「ウエストサイドストーリー」から数曲を組み合わせたものでして、
こうなって来ますと、ひさしぶりに「ウエストサイド、見ちゃうかぁ」と思うわけでありますね。
で、このほどようやく見たのでありますが、不思議なことにつき物が落ちたのか?
ついぞ口をついてメロディーが出てくるということはなくなりました。
と、これは結果のお話ですけれど。
さて、「ウエストサイドストーリー」を見たと言っても
そうそうミュージカルでは見られませんから、見たのはもちろん映画版であります。
久しぶりとはいったものの、いったいいつ頃だったのか全く不明というくらいに昔のことで、
当時はこの物語が「ロミオとジュリエット」を下敷きにしている、そんなことも知らずに見たわけで、
ましてや以前はミュージカル(当然オペラもですが)で突然にして歌い出す、踊りだすことに
酷く違和感を持っておりましたから、やっぱり部分部分しか記憶にないのでありましたよ。
ところで、今ではミュージカル、オペラも好んで見るようになってますが、
これはある時ふっと気付いたことによって違和感が払拭されたからなのですね。
今となっては気付いたきっかけは思い出せませんが、
突然に歌い出す、踊りだす…これは感情表現のデフォルメであるなと気付いたわけです。
そういうものだと思ってみれば、そうした描き方もあろうかと思えなくもない。
かつてはデフォルメ表現された部分をデフォルメの大袈裟感そのままに、
普通のセリフ(オペラならレチタティーヴォ)と同じ位置付けで見ていたために違和感になってましたが、
デフォルメされているのは「そういう気分だ」ということを強調して伝えんがためのものであって、
有態に言うと喜怒哀楽のいずれかに気分が高揚して、
例えば歌っている、踊っている部分というのは当該登場人物の想像の世界に入り込んで、
その想像の世界を観客は見ている(見せられている)とも言えようかと。
例えば「ウエストサイドストーリー」でも、
ダンス・パーティーでトニー(リチャード・ベイマー)とマリア(ナタリー・ウッド)が初めて出逢い、
互いにひと目で惹かれあうシーンがありますが、寄り添う二人以外の取り巻きはもはやピンボケ状態で、
二人にはもはや周りが見えていないのだねということが示されますけれど、
このシーンにしても、いくら二人が互いしか目に入らないからといって、
周りがぼんやりしてしまうなんつうことは現実にはありえない。
そういう気分だということを映像的に伝えているわけで、
観る側にもそれが分かりますから、この部分に特段の違和感を抱くこともないはずで、
結局のところ、突然歌い出す、踊りだす…というのも同様のことと考えれば落ち着くわけでありますよ。
逆にそう考えないと、ダンス・パーティーで別れた後、マリアの家をトニーが探し歩き、
アパートメントの非常階段に佇むマリアを見つけるシーン(「ロミオとジュリエット」のバルコニーの場面ですなぁ)は飛んでもないことになってしまいます。
会いたい一心で探し回ったマリアを目の前にして、トニーはよっこら非常階段を登ってきます。
それをうれし恥ずかし状態で待ち受けるマリアですが、すぐそこに自分の家がある、
父の声も聞こえるという状況では人差し指を口元に立てて、トニーに静かにするよう促すわけです、
が!ほどなく二人は「Tonight!Tonight!」と声高らかに歌い上げてしまうという。
「ほらほら、おやじさんに聞こえるって!」みたいな突っ込みは無用。
二人の高ぶる心は歌とともに夜空を掛け巡っている…って感じ、なだけですから。
と、違和感がどうのと言い始めた辺りから、
映画「ウエストサイドストーリー」の話とは付かず離れずになってしまいましたが、
いろいろな意味で面白かったと思いますですね。
もそっとちゃんと「ロミオとジュリエット」との比較で見てみるのも一興でしょうし、
(ジュリエットに該当するマリアは最後に死ぬことはない…ですとか)
プエルト・リコとアメリカとの構図でもって見るというのもありでしょう。
(背景には「ラム・ダイアリー」のようなことが…)
あ、そうそう、これまたご存知の方が多いとは思いますが、
ナタリー・ウッドの歌声を吹き替えている歌手の方は、
映画「マイフェアレディ」でのオードリー・ヘップバーンの歌も担当しているのですよね。
ですので、ナタリー・ウッドが歌い出すと、何だかそのまま「踊り明かそう」あたりに繋がっても
おかしくないような気がしてしまいましたですよ。