ちょっとばかり「文字の力・書のチカラ」という展覧会タイトルが気になっていたものですから、
出光美術館を覗いてみたのですね。


「文字の力・書のチカラⅡ」@出光美術館


「文字」というものが使いようによってアート作品たりうることは、
これまで見てきたあれやこれやの展覧会で思ったりしたことでして、
取り分け「漢字」を考えた場合、文字そのものがすでに意を含んでいるところへ、
その文字を配した作品としての意もまた表すことができるという、

重層的な作品を生み出せる可能性を持っていますし。


ところが、作者がどれほど意図しているのか量り知ることはできないものの、
本来的に意を伝えるべき文字を一見したところでは文字に見えない(意を伝えられない)ようなものとして、
つまりは抽象画のように提示することもありますね。


作品を前に「ううむ」と頭を捻ることも一興ながら、

解説を読んで「え?この字なの?」と思った瞬間に霧が晴れて、
和音の音合わせがあったときのような一気の広がりが得られることもあります。

こうした辺りが、書道も東洋美術も、いずれも門外漢のものにも楽しめるところなのではないかと。


考えてみれば、書道と水墨画は同じ墨を使った作品作りとして

境界線をはっきりさせることができないでしょうから、
感覚的にアートとして見ればいいのだなと思うと気も楽になりますしね。


で、出光美術館の展示でありますけれど、能書と言われた人たちの書いたものというのは
文字そのものの巧みさ(これは必ずしも素人目には本当にうまいのかわからなかったりしますが)も

さりながらバランス感覚が絶妙なのだと思いましたですね。


本阿弥光悦が百人一首や古今和歌集の歌を書いた巻物などは、
巻物ですから当然に、ひたすら横にながぁいながぁい紙であるわけですが、
ここに配された一文字一文字の整然としたさまには驚くばかりです。


もちろん、小学生の漢字書き取り帳ではありませんからきちんとしたマスがあるわけでなく、
またそれぞれの文字も画一的でなく濃淡、強弱をくっきりさせながら、全体に乱れない。


さらに言えば、川村驥山の「飲中八仙屏風」のように
酒豪8人を謳った杜甫の詩を屏風に書きつけるのに作者本人もいい気分であったか、
最後に「醉後一揮」と記されていながらも、六曲一隻の大きな屏風にまるでバランスの崩れることがない。


文字の方こそ「もしかしてほろ酔い?」と思わなくもないですが、
書の大家が書くものといえば何を見ても「ほろ酔い?」と、受け手の側としては思えなくもないので、
何とも言えませんけれど。


ところで屏風と言えば、

小野通女の作「色紙短冊散屏風」もまた違った意味でバランスがとれているというか。


和歌を書きつけた色紙や短冊を、これまた大きな六曲一隻の屏風に散らしてあるわけで、
色紙や短冊という部分のひとつひとつと、それが配された屏風全体とを

両方楽しめるアーモンド・グリコ状態。


で、これまで扇面貼交屏風なども何度か見ていながら、ちいとも気付かなかったですが、
こりゃあ「コラージュだよね」と(ようやく?)気付いたのも収穫でありました。


屏風ほど大きなものではありませんけれど、
和歌を書きつけた料紙を貼りつけて掛け軸に仕立てた作品もありました。


源俊頼の作と伝えられる「巻子本古今集切」では、
色の異なる料紙三枚を横に並べて掛け軸に貼り込んであるのですが、
それぞれにおそらくは自然の草木から染められたと思われる穏やかな淡い色合い。


こうした色遣いは、和

菓子を生み出したのと同じメンタリティーなのではないかなぁと思ったりしたですよ。


他に、尾形光琳にしてはユーモラスな水墨画「蹴鞠布袋図」や

徳川家康直筆とされる「日課念佛」も興味深い。


後者はA4版横くらいの紙にひたすら「南無阿弥陀仏」と繰り返し書きつけてあるのですけれど、
その中のところどころに「南無阿弥家康」と紛れ込ませているのでありますよ。


慶長十七年、1612年の作となれば、ほどなく大阪の陣が持ち上がろうかという時期。
こうした言葉遊び的な趣味と同時に阿弥陀仏と本人をかぶせる自信のほどが、
方広寺の鐘に刻まれた文字解釈をめぐる動きを想像させることにはなりませんでしょうか。


ということで、あれこれと興味の惹かれる展覧会なのでありました。