このお話がアニメでなかったならば
おそらく見に行くことはなかったろうと思われる映画「しわ」を見てきたのですね。
扱われている内容は、老人、介護施設、痴呆であります。
高齢化社会と言われて久しいですけれど、
確かに比率的には高まっているのだろうなぁと思う今日この頃。
ですが、昔の60代、70代に比べて今の60代、70代は
一定程度の年齢分の若返りを果たしているようでありますね、何しろお元気で。
もちろん、そうではない方々もおいでではありますが。
とはいえ、今はお元気だとしても確実に後戻りはなく「老い」の度合いを増していくことも確か。
まだまだ何とかなると思っている方が実はそうした「老い」に直面せざるを得なくなる、
そんなときに何がしてやれるだろうか、はたまた自分のことだったらどうする(どうできる)だろうかと
考えることになる話だろうと思うのですね、「しわ」は。
で、アニメでなければおそらく行かなかったというのは、
これを実写でやられた日には切実に過ぎるだろうなと想像がつくからでしょうか。
なにしろ「カルテット!人生のオペラハウス 」に登場するシシーが
ときおりひとりどこかへ意識を飛ばすあたりを見るだけでも「うむぅ・・・」となるわけですし。
似たような受け止め方をされる方がどれほどおいでかは分かりませんが、
仮に自分の他にも同様の方がどれほどかはおられるとして、
「まあ、アニメだったら見ちゃおうか」となる場合もありましょうし、
はたまたアニメだからこそ(しかもジブリが配給するという絡みを通じても)見に行ってしまう場合も
ありましょう。
そうした結果的に「こういう内容だったのか」と思うケースも含めて、
老人、介護施設、痴呆の話に接する機会になってしまう…
これが映画「しわ」の、ある種の強みでもありましょうか。
自覚はしていないものの、息子夫婦から見ればどうも記憶の混濁があるらしいエミリオが
介護施設に入所するところから、物語は始まります。
いまだ軽度と判断されてか、ふたり相部屋の一室に収まったエミリオを
同室となったミゲルが迎え、何くれとなく親切そうにしてくれるのですが、
エミリオから見るかぎりどうもミゲルには信を置けない。
ミゲル自身よりも先に「老い」の局面を迎えた人たちの世話を焼いては
そのたびに小金を巻き上げてるようにしか、エミリオには見えないわけです。
例えば若き日に乗ったのであろうオリエント急行に今でも乗り続けていると思い込んで、
日がな一日車窓風景?を窓際で眺めているおばあさんに対してミゲルは、
あたかもオリエント急行の車窓であるかように話を合わせながら、
毎度検札と称してユーロ紙幣を預かって(くすねて)帰るといった調子。
エミリオとっても、食事で同じテーブルになるアントニアにとっても、
ミゲルのこうした行動は詐欺ともいえる犯罪まがいのこととしか見えないのですが、
ミゲルからすれば、話を合わせて喜ばせている報酬くらいに考えているわけです。
なるほど、先ほどのおばあさんも、ただただ車窓風景を眺めているよりも
時折車掌が訪ねてきて、旅のようすなどの会話を交わせることを楽しんでいるふうでもある。
そのうちに、食事を同じくするテーブルの顔ぶれが少しづつ減ってくるのですね。
施設内で別の階にある完全看護の部屋へ移っていったりするのですが、
ついにはエミリオにもそんな瞬間が訪れてしまう。
そのとき、もはや表情すらも失いかけてしまったエミリオに付き添うというミゲルの行動には、
話の流れからして「やっぱり悪いやつ?」的なイメージが高まっていた観客の側からすれば、
それまでのはしばしでの言動をフラッシュバックさせてミゲルの本当の心中をなぞろうとしてしまいます。
そして、こうしたミゲルを目の当たりにしたアントニアは、
エミリオに付き添うために他の人たちへの世話焼きができなくなったミゲルに代わって、
オリエント急行のおばあちゃんの部屋を訪ね、同乗者としての会話を交わすようになります。
ミゲルに頼まれたわけでもなく、人を騙す行為とミゲルを非難していたにもかかわらず。
ジブリが関わるとはいえ、制作そのものに関してではありませんから、
このスペインのアニメーションはジブリのものとは異なっています、当たり前ですが。
書き込みの情報量?はジブリに比べると圧倒的に少なく、
動きのリアルを追求したりすることもありません。
ただ、淡々とした運びにはぴったりな「絵」と言うことができるでしょうか。
まるで「絵本」を見ているようです、とてもきれいな。
そして、淡々とした運びだからこそ、考えながら見る余裕が与えられてしまう分、
「老い」を考えてしまわずにはおれないのでしょう。
食事で同じテーブルに顔を合わせる入居者が少しづつ減っていくという場面のことは
先に書きましたけれど(スペインの状況は詳らかでないものの)、日本の、というか、
僅かな知っている例でいえば、こうした介護施設も(場所によってではありましょうが)
入居待ちが生じている状況のようですよね。
何らかの事情で食事のテーブルに空きができたということは、
部屋自体に空きができたとも思われ、そうなると程なくして待っていた入居者が入ってくるのが現実かと。
こうしたことに思いを馳せると、翻って保育所への入所待ちを思い、人生というのは
ロールシャッハ・テストで使うカードの右端から左端へ向かっているのかなと思ってみたりもしたのですね。
最後のところは余談ですけれど、
ロールシャッハ・カードの真ん中の折り目を過ぎたあたりから以降の年代であれば、
映画「しわ」の持つ静かながら強いインパクトを感じられるのではないでしょうか。