まずは一枚のフライヤーをご覧くださいまし。


「オーソドックスな古文書展示」@明治大学博物館


明治大学博物館のイベント・フライヤーですけれど、
この「オーソドックスな古文書展示」という企画展を見に行ったという話はないのでして、
これをご覧になって気になるところ、以前読んだ本のタイトルで言えば「ひっかかる日本語」は

ありませんか…とまあ、そういう話なのでありますよ。


もったいぶってないで個人的にひっかかったところを挙げてみますと、この部分になります。


「オーソドックスな古文書展示」@明治大学博物館 部分


このイベントが明治大学学芸員養成課程の主催、明治大学博物館の共催であるという記載。


ここまで書いておいて、ちと心の揺らぎを感じ始めてますが、
「これの何にひっかかるの?」と思われる方もおられましょうね。

言葉は誤用であっても、一般的な許容度合いによっては

習慣的に継続して使われてしまいましょうから。


元々「ら抜き言葉」が今でも気になってしようがない性質だものですから、
一般的なところよりもずいぶんと許容範囲が狭いことを自覚しておりますが、
先の「ひっかかる日本語」という本の中で

(唯一?)なるほどと思った「毎度あり」の用法に接してからは
ぐだぐだ言い出す前によおく考えてみようという気にはなっているわけです。


ちなみにこの「毎度あり」という言葉自体いささか古びてきてますが、
個人商店の店先などではよく使われる言葉ですね。


意味は当然ながら「毎度ありがとうございます」ですが、
そのお店に初めて来たお客さんであっても「毎度あり」と送り出して違和感がない。


しかしながら、初めてきたのに「毎度ありがとう」とは変ではないか。
その通りなんですが、「毎度あり」はその言葉の持つ本来の意味とは違って、
何か買ってくれた客を送り出す符牒のように使われている、それこそ習慣的に継続して。


ですから、ここでの本来の話ももしかしたらすでに習慣的に継続して使われていることを
個人的に知らないだけなのかも…と思いつつも、本来言いたいところに入ります。


上のフライヤーで併記されている「主催」と「共催」。
まずはこれらの言葉の使用例として、上のフライヤーのような用法に違和感を抱く上司と
違和感を抱かない、つまりは普通の言葉として認識している部下との会話を

見てみるとしましょう。


上司「今度のあの企画の主催はどこ?」
部下「A社です」
上司「B社は関わらないんだっけ?」
部下「B社は共催です」
上司「じゃあ、A社とB社の共催ということだね」
部下「いえ、A社は主催です」
上司「???」


この上司と部下との話がかみ合わないのは、どうしてか。
部下の方は「主催」と「共催」の意味に序列が含まれていることを意識して使ってますね。


当該企画の催し手はA社とB社だけれども、そのうち「主となる催し手」を「主催」といい、
「従たる催し手」を「共催」と言っているわけです。


しかし、上司の理解としては「催し手」=「主催」であって、そこには「主たる」も「従たる」もない。
そして、「催し手」=「主催」が複数ある状態を指して「共催」と上司は言っている。


個人的にはここでの上司の理解が当たっていると考えていますから、
先に引用したフライヤーの文言にひっかかった…とまあ、こういうことになるのですね。


これを書き始めるまでにあれこれ検索をしてみたりしましたけれど、
その中で「主催」という言葉の「主」が勘違いの元ではないかというのがあって、なるほどと。


「主立って催す」というのが「主催」の意であるとして、

誰に対して主立っているのかを考える時、先の部下の考えるところに従えば、

他にも催し手がいる場合にその中で主立った催し手のことを指しています。

ですが、よく考えてみれば分かるように催し手は複数無くても「主催」は「主催」ですから、
誰に対して主立っているのかは、当該企画への一般の参加者に対してと考えるのが

自然ではないかと。


こう考えてくれば、「主催」と「共催」が

並列に連ねて使われる言葉でないとが想像できるわけですが、
どうも世の中的にはこうした本来的な言い分はおよそ理解されなくなっているようす。
明治大学だけを例示するのではどうかと思いますので、ついでに早稲田大学にも同様のものが。
(なぜか大学関係に多いと思われるのは不思議です)


早稲田大学演劇博物館フライヤーより


一方で、次のような記載を見るとほっとします。


東京工業大学の特別協力による展覧会フライヤーより


まだまだ揺らいでいる段階なのかもですが、

果たしてこの後この用法はどのような落ち着きを見せていくんでしょうかねえ…。