この間は思いつきで種の存続がどうの… といったことを書いてしまいましたけれど、
動物が成長していく様というものをほとんど知らないままに
ただ単に産まれる卵・個体の数からの話でありました。
そこで、もそっと動物の実状を知っておこうかと思っておりましたら、
比較的最近出た本(2013年3月20日発行)に行き当たったのですね。
新潮新書の一冊で「本当は怖い動物の子育て」というものです。
それにしても(と、以前も書いたことなんですが)、
かつては新書といえば岩波と中公が双璧であって、
いずれも「知の泉」的なところを標榜していたように思うのですが、
いつのまにやら雨後のタケノコ状態にたぁくさんの出版社から新書が出るようになってますね。
で、その雨後に続々と出てきたものの中には
タイトルのキャッチーさで売ろうという姿勢がかなり露わな気がしないでもない。
かくいうこの一冊とて「本当は怖いグリム童話」(これが最初なのか、確信はありませんが)以来、
「本当は怖い○○」みたいな安直なネーミングが続出したのが落ち着いた今頃になっても
こうしたタイトルを付けてしまうのは、どうしたものかと…。
と、タイトルへの愚痴りはこのくらいにして中身ですけれど、
「動物には人間が含まれている」という当たり前ながらついうっかり区分けしてしまうあたりを
揺さぶる内容になっておりましたですよ。
カバー袖にある紹介文にはこんなふうにあります。
まさか!? なんてこと!! パンダの母親は「できの良い子」をえこひいきして「ダメな子」を見殺しに。タスマニアデビルは生まれたての赤ちゃんにサバイバルレースを課し、リスはご近所の子を取って食う……子殺し、DV、虐待は日常茶飯事。極悪非道に映るメスたちの狙いとは? オスはその時どう動く? 「ヒト」は彼らと別物か? テレビ番組や動物園が伝える美談からは決して見えてこない、動物たちの恐ろしく、たくましい真実の姿。
折しも先頃にはパンダ妊娠の兆しが報じられましたけれど、
ちょうどそのパンダの話題が最初の方にあります。
どうやらパンダはいちどきの出産で2頭産むことが多いようなんですが、
最初から2頭ともどもを育てるという気がないらしいのだとか。
紹介文には「できの良い子」「ダメな子」とありますけれど、
先に産まれたパンダ赤ちゃんがだいたい標準体型であるのに対して、
後から産まれるパンダ赤ちゃんはおよそ決まって体格的に明らかに劣っているのだそうです。
どうやら、基本的に後から産まれてくる方は
最初の方が万万が一死産であったとかいう不慮の事態に備えてのスペアであって、
最初の方が大丈夫そうなら、ほおっておかれてしまう。
人間の理屈からすれば「何と残酷な…」とも思えるところながら、
どうやらパンダ・ママにはそもそも2頭を育てるだけの母乳のでないのだそうで、
確実に1頭は育て上げるようなふうにパンダの世界はできあがっているようです。
パンダの話に続いて、クマ、サル、ラッコ、タツノオトシゴ、タスマニア・デビルなどなどの
子育て話が紹介されますけれど、いずれを読んでも人間からすれば仰天ものと思えなくもない。
ですが「動物はいかに自分の遺伝子を残すかという命題のもとに生きている」が故であって、
その点では人間もまたそうした「遺伝子の論理」から逃れられないのだと。
そこでこうした(いわゆる)動物の状況をたどってきた後に、
先住民(昔だったら土人とか言われていた、およそ文明化されていないところの種族)の例が
紹介されるに至って、それまで(いわゆる)動物のことといささかの隔てをもって接していたのが
そうもいかなくなってくるのですね。
文明人(それを完全に是とするかどうかは別問題ですが)的な考えからすれば
「子殺し」を言うことになってしまうことを、まずは動物の例でもって語り、
その延長線上であるかのように先住民のあり様を語り、
そして最後にはリアルタイム現代の、日本で起こった児童虐待や育児放棄(ネグレクト)が語られる。
流れとしてあまりに同一直線上に乗っているように眩惑されてしまうところです。
が、著者にすれば眩惑どころか、直視すべきものであると言っているのですね。
先の引用にさりげなく挿入されていた「『ヒト』は彼らと別物か?」との一文は、
実はそれが一番の主張であったりするわけです。
読み通してみると、さもありなんと思えるであろうことは必至であって、
こうした側面で考えてみることの必要性も理解できるところです。
が、人間ってのは結局そういうものかと思うかどうかの点においては、
素直に頷けないところでもあるような。
こうした考えにとらわれているのは、自覚的ではないけれど、
「やっぱり人間の方が上で・・・」てなことを思っている証左になってしまうのでありましょうかね・・・。