お訪ねいただきありがとうございます。
私は自治医科大学を卒業し、現在人口700人ほどの村にある診療所で、村唯一の医師として勤務しています。
前回に引き続き
高齢患者に「蘇生しないで」…救急隊員を困惑させた家族の訴え
という記事について思うことを書いていこうと思います。
以下は記事の一部の抜粋ですが、
好きに死ぬことを難しくさせている要因は2つある。1つは、遺される家族の割り切れない感情だ。本人の意思を確認し、尊重しようと覚悟していても、死に逝く姿を見守るのは本当につらい。もしかしたら回復するのではないかと一縷の望みを絶ち切れないこともあるし、深夜や休日に危篤になった場合の対応を在宅医と決めておかなかったために動転し、救急車を呼んでしまうこともある(結果、救急隊や救急医に「蘇生はやめて」と嘆願することになる)。
この記事の中で書いてあったことですが、内閣府が行った調査によると、もし自分が治らない病気なら、自宅で最期を迎えたいと望む人は半数を超えているみたいです。
しかし実際は、自宅で亡くなっている人はわずか13%。ほとんどの人は病院・診療所で亡くなっているとのことでした。
終末期の医療に関わっていて思うことですが、人生の最後を自宅で迎えられるか、最後を迎える前に救急搬送となり、結果病院で最後を迎えるか、この違いは患者本人の望みより、はるかに家族の意向というか、覚悟が大きく影響しているように私は感じています。
死の直前まで患者としっかり意思疎通が取れることは非常に稀です。
そして多くの方は死が近づくにつれ、ご飯が全く食べれなくなったり、肺炎を合併して高熱が出たり、息苦しそうにしていたりと、何かしらのイベントが生じます。
死ぬ直前まで特に苦しむこともなく、死ぬ時だけ眠るように静かに息を引き取るなんてことは非常に稀なケースだと思います。
死が近い患者は、24時間常に介護が必要であり、亡くなるその時まで、片時も離れられません。
いくら最後は家で迎えたいと望んでいるケースであっても、目の前で患者が苦しんでいる姿を見て、介護する家族は救急車を呼ばずにいられるか?
そういった状況になると近所の方や、親戚の方などからも「絶対救急車を呼んだ方がいいよ」みたいなことも言われたりするでしょう。
といった話になるとやはり多くの家族は救急車を呼んでしまう、というのが実情かと思います。
死への覚悟を持つことは難しいことです。
超高齢でも、癌の末期であっても、心のどこかでは「もしかしたらよくなるかもしれない」と家族は望みを持ってしまう、そういうものだと思います。
私もそういった場面に遭遇した時は、家族の介護負担や心情を考慮し、救急搬送を勧めることが多いです。家族に悩みがあるようなケースだと、ほとんどの場合、救急搬送を希望されます。
しかし時々ですが、救急搬送を勧めても「救急車は結構です。何があっても最後は自宅で迎えて、先生に看取ってもらうって決めてるんです。」みたいな形で、家族が強い覚悟を示されるケースがあります。
私が在宅で最後を看取った患者のほとんどは、このように家族から強い覚悟が感じられたケースだったように思います。
いくら患者の希望があっても、人生の最後を自宅で過ごせるようしてあげることは、家族にとって介護負担も非常に大きいし、常に様々な不安がよぎってしまうかと思います。
苦しむ患者をみて救急車を呼んでしまうことは決して間違ったことではありません。
ただ、最後自宅で看取ってあげたいと、もし本当にそう思っているのなら、何があってもその信念を曲げない、強い覚悟が必要である。
私が僻地の場で終末期の医療に関わっていて思うことです。
ではでは