「人生会議」PRポスター騒動をみて思うこと  | KMMのブログ

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人口700人程の村にある僻地診療所での勤務が終わり、現在は大学病院で勤務しています。
診療を通じてたことや、個人的に気になったことなど適宜書いていこうと思います。

お訪ねいただきありがとうございます。

 

 私は自治医科大学を卒業し、現在人口700人ほどの村にある診療所で、村唯一の医師として勤務しています。

 

「人生会議」という言葉・・・・今話題になっていますよね。

今回の「人生会議」のポスター騒動について、私の思うところを書いていこうと思います。

 

もしものときのために、あなたが望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取組のことを専門用語で 「ACP:アドバンス・ケア・プランニング」と言います。

 

このACPのことを、厚労省はわかりやすく「人生会議」と愛称をつけました。
この「人生会議」を広めようと作られ、公表されたPRポスター、これが今話題というか問題になっています。
以下がそのポスターです。
 

ポスターに書いてある内容は以下の通りです。

 

《まてまてまて俺の人生ここで終わり? 大事なこと何にも伝えてなかったわ

それとおとん、俺が意識ないと思って、隣のベッドの人にずっと喋りかけてたけど、全然笑ってないやん。

声は聞こえてるねん。はっず!

病院でおとんのすべった話聞くなら、いえで嫁と子どもとゆっくりしときたかったわ

ほんまええ加減にしいや。あーあ、もっと早く言うといたら良かった!

こうなる前に、みんな 「人生会議」しとこ》

 
と、自身の望みを伝えることができなかった家族に対する不満の言葉が、心の声として書かれています。
 
 
私もやっぱりこのポスターには少し違和感を感じてます。
 
僻地診療所で働いていると、当然のことながら在宅での看取りを行う患者さんもいて、厚労省のいう「人生会議」に立ち会う機会が度々あります。
 
私が経験した「人生会議」の一例です。
 
患者さんは90代男性の方でした。以前より慢性心房細動、直腸癌術後、慢性腎臓病など複数の病気があり、私の勤務する診療所に通院されていましたが、尿路感染症が原因で敗血症という重病を発症し、3か月にわたる長期入院を余儀なくされました。退院後は自宅に戻られましたが、入院による体力の低下は明らかで、ほぼベッド上で寝たきりの生活となっていました。入院前は村内で、妻と二人暮らしでしたが、退院した後は長男が仕事を制限し、同居したうえで介護に協力してくれました。退院から6ヶ月ほどしたある日、咳や全身の怠さがあらわれ、その数日後には症状が悪化し、食事もほとんどとれなくなりました。意識ははっきりしており、血圧や脈、体温に異常はありませんでしたが、血液検査を行うと炎症反応と呼ばれる感染症を示唆する数値が著明に上昇しており、肺炎を合併している可能性が高いと思われました。年齢や現在の全身状態を考えると、非常に危険な状態であることを患者さんと妻、長男説明し、それぞれの想いを聞きました。患者さんは自分の死期が近づいていることを感じており、「このまま家で最期を迎えたい」と希望されました。妻・長男とも、できるだけ苦痛のない最期を迎えさせたいと考えていましたが、長男は、食事が取れない場合は栄養剤を投与したり、肺炎の治療のための抗生剤の点滴をすることなどは希望されており、入院治療を望まれていました。肺炎は、適切な抗生剤治療を行うことで改善する可能性も高いと思われたので、やはり入院治療が望ましいことを説明したところ、患者さんも入院治療に納得されて、近く(とは言っても隣町にあり、30km程離れていましたが・・・)の総合病院に緊急入院となりました。適切な抗生剤治療により肺炎の方は改善しましたが、食事がとれない状態は変わりありませんでした。入院中の担当医からは、現状では自宅に帰るのは困難でだろうと言われ、療養型の病院へ転院を強く勧められましたが、息子は父親が家での最期を迎えたいと希望していたことを思い返し、在宅での治療を強く希望され、自宅退院となりました。帰村後は、診療所から引き続き往診する方針となりましたが、全身状態の悪化は顕著で、口からの食事はほとんどできない状態であり、また患者さんとの意思疎通もほとんどできない状態になっていました。再度妻、長男と話し合う時間を作り、余命はあと数日~数週と考えられることを説明し、妻・長男に想いを伺ったところ、「住み慣れた自宅で最期を迎えさせたい」という強い意志を持っていることが分かりました。

家族はその後も懸命に介護をされましたが、退院から10日目に、患者さんが息をしていないところを家族が発見し、そのまま自宅で息を引き取りました。

 

 
「人生会議について」・・・・あくまで私個人の経験に基づいた意見にはなりますが、
 
患者さんは誰よりも自分の死期が近づいてることを自覚しているように感じます。
 
そして、この「人生会議」の場で患者さんの口から出る言葉は、ほとんどが家族の方への感謝の気持ちです。
 
そして同時に、自分のことで家族をはじめ色々な方に迷惑であったり、負担をかけていることへの申し訳ない気持ちを持たれています。
 
そういった気持ちから、「自分がどのように最後を迎えたいか」という希望を言うことに、ためらいが生まれているように感じます。
 
そして家族は家族で、「出来るだけ元気でいられるようしたあげたい、そのために出来るだけのことをしてあげたい」、
そういう気持ちを抱いており、患者さんの前では「最期を迎える時」の話をすることをどうしても敬遠してしまう傾向にあるように思います。
 
しかし誰しも必ず最後は来ます、避けることができない事実です。
 
その事実と真正面から向き合い、それぞれの想いをみんなで共有することで、患者さんとその家族の方の双方にとって、より良い最後を迎えられるようしてあげること、これこそが「人生会議」の役割なのかなぁと思っています。
 
避けることが出来ない「死」を目前にした患者さんは絶望の淵にいます。
 
そしてまた家族の方も、どのようにしてあげることが正しいことなのかと常に悩み、暗闇の中をさまよっているような状態にあるように思います。
 
暗闇の中にいる患者さんやその家族に、一筋の光をともしてあげること、これこそが「人生会議」の本当の意義だと私は思っています。
 
なのでこのポスターのように死を直前に迎えた患者さんが、家族への不満を述べている様子には、どうしても違和感を感じてしまうのだと思います。
 
と非常に長く、まとまりのない文章になってしまいましたが、本日はこの辺で。
 
ではでは