ウィンタースポーツ界は、今日がトリノでのフィギアスケートのグランプリファイナル最終日で盛り上がっています。

かつて妻は、フィギアスケーターとして青春のひと時を過ごしました。

 

妻の郷里では、スケートは冬の大衆娯楽で週末には町のスケートリンクへ家族総出で行っていたそうです。

義母は妻のスジが良いことに気づき、通年開講のフィギアスケート教室へ入れました。

妻が中学へ進むと、そのスケート教室では強化対象生に選ばれ、全日本選手権の地方ブロック予選出場へ向けて猛練習を開始しました。

そして満15歳の中学3年の年に、地方ブロック予選の前哨戦である県大会へ出場したのですが、思いがけない壁が立ちふさがったそうです。

 

ここからは妻の説明を要約します。

妻の県は、例えば今の愛知県が旧・名古屋県と旧・三河県という明治初期のの2つの県がくっついてできたように2つ県がくっついてできたもので、1871年の廃藩置県以来、根深い地域対立が100年以上も尾を引いていました。

一方の旧県はかなりの面積と人口を擁し、妻の側の旧県は県全体の1/4にも満たなかったそうです。

そのスケール差は県内の様々な面で力関係として作用し、県大会の審査員の構成でも妻の側は不利になっていました。

(20世紀末あたりから県内融和が始まり、今世紀に入って妻の地元出身の県知事が誕生しました)

 

地方ブロック予選へ進むには県予選で3位以内に入らなくてはならなかったそうですが、妻は中学3年と高校の3年間はいずれも4位だったそうです。

妻を送り出したスケート教室側は独自に採点を行い、高校3年の時は明らかに2位入賞のはずだったので、審査側へ抗議を申し入れたものの、覆りませんでした。

それから妻は大慌てで大学の受験勉強を開始し、私の母校とは創立以来100年以上ライバル関係にある東京の某私大へ現役で進学しました。

(続く)