9/8(月)1800

世田谷区パブリックシアター

A席、三階のセンターで拝見しました。


リンクがうまく貼れてなかったら検索してくださいませ。

https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/aino-alibaba2025/










大学時代、アングラ演劇サークルの人と交友があり、体育館で開催された芝居を何回か観に行っていたこともあって、アングラのハードルが低かったワタクシ。たまたま目についたこちらの会場が家からも職場からも近かったのと、壮一帆さんが出るのを知ってチケットを購入しました。

世田谷区パブリックシアターは望海さんの『マスタークラス』以来。約600席、舞台を包みこむように客席が緩やかな弧を描いており、上の階からもとても見やすく、声もよく通る劇場です。

私から見える一階席はほぼ埋まっていましたが、二階三階のサイドはほとんど空席で、全体から見て8割くらいの入りだったかと。

全20数回の公演で、今日はそろそろ中日。


隣の席の二人連れの方が「武道館当たるといいね」と話していたので、(武道館でライブをするような出演者のかたが?!)と今更驚くワタクシ。あとで調べたところたいへん失礼しました、スーパーエイトの安田章大さんが主役でした。



『アリババ/愛の乞食』と並列されている題名ですが、60分、90分と二幕で上演され、男性の主役は共通ながら、なんの関連性もなく全く別の物語です。

そしてタイトルもなんら内容を彷彿とさせるものではありませんでした。



下三角まず一幕め アリババ

いまやアリババと言えば中国の通販サイトのことですが笑、この作品ができた1966年にはおそらく、(出典には諸説あれど)アラビアンナイト(千夜一夜物語)のなかの『アリババと40人の盗賊』を思い浮かべる人がほとんどだったものと思われます。

安田章大、壮一帆の夫婦の二人芝居なのか?と思うほど、二人のセリフの応酬だけで話しが進んでいきますが、突然風間杜夫が続き廊下のような下手セットから歌を歌いながら登場。二幕めの伊原剛志もそうですが、このベテランの方々は話を回す役回りを担っており、出てきただけで存在感がすごいのはさすがです。

夫の宿六が雨の高速道路を走っていた「黒い馬」をずっと捜していて、妻の貧子がその現実なのか幻なのかわからない話を「ほんで?」を連発しながら聞くという、ジリジリするようなねっとりした流れの前半に、風間杜夫が飛び込んできたことで、貧子には中絶した嬰児がいることが明かされます。後半はその水子たちが乱入してきて、失われた命の切なさを訴えるという全く関連性のなさそうなエピソードがぶつかり合う展開。ただラストではその中絶した子どもが赤い張り子の馬に乗って現れるので、(やっぱり馬はどうしてもはずせないのね…)とそっと考えるという(笑)

で、何がアリババか?ということですが、風間杜夫が「(ここ)アリババの町では…」と言っているので、幻想の町の名前ということなんですかね?解説は無用なのかもしれませんが、気になりましたので。


今回の上演の売りは全編関西弁なことで、テレビなどでかなり聞き慣れているはずの関西弁でしたが、聞き取れない事が意外に多くてむしろビックリしました。早口なせいもありますが、語彙自体がわからないセリフもあり、ただひとつひとつ意味を考えていると展開についていけないので、わからないことはわからないままにして話の流れに乗ります。まぁしかし、関西弁のセリフが全て聞き取れたとしても、それで話しがわかるかと言うとそれはまた別の問題でして…トホホ


それにしても安田章大が割に小柄なこともありますが、壮さんやはり背が高いですね〜。でもすっかり女優さんでした。



下三角二幕め 愛の乞食

タイトルから想像するに「愛を貪欲に求める話し」なのか?と思っていると、最後まで見てもどうもそういう話しではない。(…笑うしかない)

舞台はなんと公衆トイレのなか。一幕めが夫婦の家だったことを思うといかにもアングラっぽいシュチュエーション。スカートを履いた緑のおばさん役(昔はいたね〜。今の人にはここが既にわからないと思います)で登場する伊原剛志。おてもやん(死語?)みたいな化粧が可笑しいけれど、とにかくそのオーラには惹きつけられます。一幕めの『アリババ』が煙に巻かれた感じなのに対して、『愛の乞食』は前半はだいぶわかり易く笑いをとります。バケツと柄杓を持った伊原剛志が客席に近寄ると、1列目2列目の客席に座る人たちが配られていたビニールシートを慌てて広げるのを上から見ていて、(まさかここで客席にほんとに水を撒くの!?)と思ったら、小さめのボール状の水もどきでした。ロビーに「劇中客席に飛んできた小道具は回収させていただきます」と注意書きがありましたし、一幕めでも“うんこ”(もちろん作り物です)を盛大に客席に投げていたので、水撒きもあり得るのか?と心配しました。(タネ明かしをすると、実はこのビニールシートはだいぶ後で必要となる事がわかりました。)

このお話しは公衆トイレを我が物とした伊原剛志が、その場所で、夜は万寿シャカ(伊東蒼)という女性がママとしてやってきてキャバレー豆満江を営業するという突拍子もない設定で、時代としては大まかには戦後。戦中の情勢のような描写もあるものの(たとえば満州国とか)、緑のおばさんが実は昔は海賊だったという展開に至っては、もはや何が現実なのか、どこに突っ込んだらいいのかお手上げ。唐突に登場する憲兵姿のシルバーがどうやら伝説の海賊?で、ラストは元海賊どうしの仲間割れからお互いの殺し合いになったり、トイレで緑のおばさんを介抱していた保険会社の社員まで、なにを逆上してか取り締まりにきた刑事を次々と殺す有り様…もう何が何やらの混乱のさなか、万寿シャカがトイレのバルブを一斉に開いて、シルバーに水を浴びせる(この水はホンモノ!ここで最前列席の方は念の為ビニールシートが必要でした)。蛭川幸雄の舞台にもホンモノの水を使った演出がありましたが、アングラではこの一種の水芸はあるあるのお約束なのかしら?

ラストで、曼珠沙華の花を帆に描いた派手な大きな海賊船が、セットの背後が割れて現れたのには驚かされました。ほんとに最後の最後に一瞬使うだけのセットにずいぶん大掛かりな仕掛けを使うものですね〜



下三角総括

見終わってみて正直なところ、伝えたいことがなにかはわからなかったですね~。スミマセン(_ _;)

役者はそれぞれ熱演だとは思いましたが、メッセージがあったかと言われると、伝わってない以上は無かったに等しい。


力のある者に対してものが言えなかった何十年か前、反骨精神の表明だったと思われるアングラ演劇。いまやコンプライアンスに欠けることは、組織の存続を揺るがしかねない一大事。事実差別がなくなることはなかなか難しくても、少なくとも表面上は無いふりをすることが強く求められている今の時代に、アングラ演劇の存在意義はなにか?などとグルグル考えてしまいました。

小さめの劇場でわけのわからない内容の芝居をやることに「演劇とは」の意味を見出す、一定数のこだわりのある人はいることでしょう。志を同じくする人たちを否定するものではないし、みんなが同じ方向を向くより千差万別の志向があったほうが、世の中は豊かになると思います。多様性は悪いことじゃない。観る人も様々だし、感想は当然一つではあり得ない。

ただそれなりのお金をとって打つ商業演劇には、人の心に訴える、ある程度の汎用性も必須かと思います。出演者であっても、台本であっても、装置であってもいい、足をはこんだ観客が観て良かったと思える何かを提供できなければ、いわゆるただの自己満足に終わってしまいますよね〜。 


注意個人的な感想とはなりますが、この作品群で私の心に残ったのは、突拍子もない世界観、時々仕掛けられるドッキリ、鮮やかな色彩、風間杜夫と伊原剛志の存在感、プラスアルファで壮さんの生存確認ができたことがお金と時間を費やした対価でした。

会社帰りでしたので「(帰宅と反対方向だけど)どこ行くの?」と同僚に聞かれていました。「観劇は面白かった?」と後で尋ねられたら唸っちゃうかも。

そしてやはり自分にとっては、物語の筋というのはとても大切だとあらためて思い知った次第。