12/14(土)1230 ぴあ貸切

日生劇場にて、妹と。

13列目上手

20分の幕間を挟んで、3時間35分と長丁場。

(※以前は4時間を超える長編だったらしいので、これでもだいぶカットされてるのでしょう。)


なかなか本業の?宝塚観劇記録になりません(笑)笑い泣き

今日はご近所の日生劇場にやってきました。




久しぶりに「人」でなく、「作品」を見たいと思った演目です。まぁしかし、最近わかったことですが、外の演劇でも元宝塚歌劇のかたが出ていることがほとんど。今作は瀬奈じゅんと綾凰華。瀬奈さんは自分の観劇ライフが彼女の宝塚卒業までに間に合ってないので、舞台姿を見るのは初。ご活躍は聞いてましたが、失礼ながらわざわざ観に行くほどのモチベーションもなく。私にとっては、ゆうひさんの同期というのが最も大きなモチベですかねー。あやなちゃんは宝塚時代は気になるジェンヌさんの一人。98期はゆうひさんの宙組で初舞台でしたので、期ごとまとめて気にかけています。


井上ひさしの戯曲だとか。

昔々◯◯ハラの影響下にあった頃、井上ひさしを下劣だと吐き捨てるヤカラでしたので、その頃は井上の「イ」の字も口にするのが憚られましてね〜。でも実はひそかに気になる作家だったことがよみがえりました。

たとえば『十二人の手紙』…

この人の発想というか、構成力というか、なんかすごいな〜と唸ったものの、ずっとお腹の中にしまってきていました。

というわけで、何十年ぶりかの井上ひさし。


天保と聞いて真っ先に思い出すのは「天保の改革」ですね。天保12年は西暦1841年。あと25年ほどで江戸時代も終わりの頃です。当時はまだ幕末とまで思ってなかったでしょうが。

1616年に亡くなったシェークスピアの作品が鎖国中の日本に伝わるわけはなく、どうやら(舞台作品として)板に上がったのは明治になってからのようで、どうして時代設定を天保12年にしたのかは見終わってもナゾのまま。この作品では特に政治的、国際的な事件が絡んで描かれてはいません。天保12年でなくてはならない必然性はなさそう…?


シェークスピア全37作を盛り込んでそれを横糸に、天保水滸伝を縦糸にということですが、知識不足でその件については語る資格を持ちません。

なので、ほぼ知識なしで観劇した前提で、感じたことを綴ります。

はじめに実見した大ざっぱな感想を言っておきますと

①言葉遊びが繁くて井上ひさしっぽいなー

(妹に言わせると、そもそもシェークスピアがそう)

②心の中の声まで、すべてをセリフに乗せてしゃべるんだ!?

③人が死に過ぎ。結局生き残った人はいるのか?

④大人向け…(少なくとも小学生には見せたくない、たぶん説明に窮する)


前半


以上を踏まえて、はじまりはじまり〜

狂言廻しの役割も兼ねている木場勝己が、高座に設えた所にヨタヨタと出てきて、前振りを語ります。前回コロナで途中打ち切りになったことの無念や、今日ここでお客さんに披露できる喜び。ここは現実の世界でお客さんとやり取りする場で、私たちも心からの応援の気持ちを拍手で伝えて。



そしてプロローグは主たる出演者全員で。

高さのあるセットに鈴なりにスタンバイして、コーラスという豪華な始まり。舞台の上手下手に、楽曲の歌詞が投影されて、視覚情報がとてもありがたい。シェークスピア讃歌とでもいうような歌詞で、これはエピローグでも歌われる主題歌。

この時に限らず、歌唱の時には歌詞が投影されていました。


いくらほぼ知らないと言っても、さすがに『リア王』『ロミオとジュリエット』『ハムレット』『マクベス』『十二夜』『真夏の夜の夢』など、全編は知らなくても聞いたことのある作品や有名なセリフは幾つかあるものです。

今回大きなシェアを占めるのは『リア王』『リチャード3世』『ハムレット』ですかね?『ロミオとジュリエット』味もあったかな。

まずは3人の娘と、相続争い。

これが物語の発端となっています。

主演の浦井健治は佐渡の三世次(ミヨジ)役なので、名前からしてリチャード3世を体現。

なるほど、こういうつくりなのね…と、納得する導入部。

この物語の始めから終わりまではどんなに短くても2年、感覚的には10年くらいは経っていそうですが、時の流れがはっきりわかるような材料はなく、筋書きが動くのにつれて登場人物もどんどん増え、どんどん入れ替わり(二役、三役もあり)、とにかくすごいスピードで話が進みます。ついていけないわけではないけど、なかなかに集中が必要なことはたしか。

主役の佐渡の三世次ははじめは黒幕的に立ち回るので、衣装の地味さもあってあまり目立つ感じではなく、これまでの浦井健治の役どころからみたら(見たことはないので過去の出演情報によりますが)たぶん新境地。聞けば前回はキジルシの王次の役だったとのことで、なるほど、そっちのほうが似合ってはいそう。しかし役者は、こうやって引き出しを増やしていくのでしょうねぇ。

そしてそのキジルシの王次は、これはたぶんハムレット。大貫勇輔は初の実見でしたが、背も高く華やかで元々はダンサーなのだと知って、その立ち姿の美しさに納得。ヅカファンには沙央くらまの年下の夫として認識されているかたですが、そう言えば「沙央(沙翁)」というのはシェークスピアを指すのでしたね。コマさん(=沙央くらま)の両親がシェークスピアシアターの俳優だったことからの名付けらしく、シェークスピアとのご縁を勝手に感じてしまいました。キジルシの王次はもちろん重要な役で、なんなら前半は主演なのかな?と思われるほどの露出。ただ王次関連でちょっとだけ腑に落ちなかったのが、放蕩していた王次を迎えたお冬(オフィーリアですね@綾凰華)を何故すげなくふったのか?ということ。ハムレットの原作がそうだから、という理由だとは思いますが、なんか彼女に放つ言葉がそれって言いがかりでは?と思われて、ひたすらに待っていたお冬が気の毒で腹が立ったし、どうしても引っかかった点でしたね〜


注意⚠️このあとネタバレあります。


後半


さぁそして後半はいよいよ佐渡の三世次が本性を現してきます。あらゆる状況を利用して口先三寸で自分に都合のいい結論にもっていき、のし上がっていく。

拷問を受けながらも全く懲りない。金貨を口に含んでいて吐き出すさまはアングラか?!と思うような、凄みを増していく演技に引き込まれます。こういう演出に限らず、(宝塚の)外の芝居は文字通り体を張った演技が多く、エアー立ち回りに慣らされている身としては、そのリアル感を追求した演技には思わずビクッとさせられます。


いったいこんな最低の人間の思い通りになったまま幕が降りるのか?とモヤモヤドキドキしていると、業のしっぺ返しはやはり…。

三世次にとって自分の意のままにならないたったひとつのことが、思いを寄せるおさちが反発を続けていることで…そのおさちからの(仕返しとして)贈られた物というのが、「自らの醜さを映す鏡」。鏡に映った自分の姿のおぞましさに狂乱していくというのが、佐渡の三世次の末期となるわけです。姿見を覆う布がはらわれると前後して舞台装置が開き、舞台のほぼ全面に巨大な鏡(たぶん強度の問題から一枚鏡ではなく障子のようになっていました)が現れ、なんと我々観客が映るという大仕掛け。「自分の姿を見るがいい」という、観客に向けての作者の啓示かと思われましたが、私は(二階三階は空席が目立つな〜)などと仔細に客席を観察してしまいまして笑笑


フィナーレはプロローグと同じ歌のコーラスで、出演者は(ほぼ)全員が額に死装束の白の三角の布を付けていて、たくさんの俳優さん達が客席降りをして通路で音楽に合わせ体を揺らして客席にアイソをふりまく盛り上がりぶり。話しの結末としては明るくはないのですが、それでもカラッと終わるのは、ふしぎですらあります。

筋書きのやるせなさに反して、テンポ感や言葉遊びは軽やかなものでしたので、役者のテンションは複雑そう。そしてそれはもしかすると観客側にも言えたことだったかもしれません。


今回期待していたもう一つは宮川彬良の音楽。

でもまさか本人が現場でタクト振ってるとは思わず、カーテンコールで出てきたときは驚きました。舞台の奥の高いところで演奏していたバンドメンバーも、よくある黒の上下でなく、茶色やカーキの服で、頭には手ぬぐいで頬かぶりという舞台の雰囲気に溶け込んだ服装をしていて、ちょっとうれしいものだったことを覚えとして付け加えておきたいところです。