8/29(木)1745公演、帝国劇場。
e+貸切のA席。スマチケです。
改札のスタッフが画面を2本の指で操作してくれて、サクサク入場できました。
二階6列目のセンターにて。
25分の休憩をはさんで終演は2055
台風10号がノロノロと接近する中、劇場はほぼ満席。
チケットを求めたきっかけは、やはり真彩希帆と古川雄大というキャスティング。劇場の女性率は半端なくて、実際に見かけた男性は数人。98%は女性のお客さんだったのでは?やはり古川雄大のファンでしょうかね〜。宝塚よりは若干客層が若かった気がします。
何回も再演されてるようですが、前作の評判とか、制作サイドとか全く見てなかったので、(こんな話だったのね…)とはじめて知ったようなわけで。
真彩希帆はモーツァルトの妻コンスタンツェの役ですが、そう露出は多くなく、女性キャストで目立っていたのは、ダブルキャストだった男爵夫人の(今日は)香寿たつき。ドレスも豪華だし、「星から降る金」という有名な劇中歌のソロ歌唱がありました。ちなみにもうひとりは、涼風真世です。この役は久世星佳、一路真輝、春野寿美礼などが演じたそうで、トップ男役の当たり役となっているようです。
初見の印象ですが、
①少年モーツァルト(アマデ)を演じる子役が可愛かった!
②山口祐一郎の貫禄が突出

アマデはトリプルキャストで、今日のアマデは白石ひまりちゃん。ひとことのセリフもなく、でも主人公の古川雄大が舞台にいる時は必ず影のように舞台にいて(スポットは当たっています)、とにかく出ずっぱり。スラリとした背格好でなにしろ姿勢がすばらしくいい!プロフィールをみるとダンスが得意らしいので、体幹がいいのかな。体幹のいい人は姿勢がいいですよね。
演劇に「本当の」子どもを使えるのは、宝塚にはない良さだと思います。子どもが作品に与えるパワーは侮れない。
そして山口祐一郎ですよ。この人ともうひとり市村正親の二人は、初演からずっと同じ役をやっていて、山口はとにかく体が大きいし、声も大きいし、役柄がまた非常に態度の大きい大司教様なので、出てきただけでメッチャ威圧感がありました。ピッチはもはや合ってるのかどうかすらわからない大きい声で(笑)、存在だけで演じきってました。(→褒めてます)
余話ですが2019年の星組『ロックオペラモーツァルト』にもこの大司教様は出ていて、(ご想像どおりw)輝咲玲央さまだったのですよ
山口さん、もう67歳なのですね。主役から今は脇を締める立場になって、まだまだ意気盛ん。
小池修一郎演出でしたので、一幕の最後に全員出てきてせりが上がって合唱で幕が降りるという、あまりにも定番で、ちょっとだけ笑えました。
※書き足し部分↓
舞台装置ですが、(前作もそうなのかはわかりませんが)帝国劇場に銀橋ができていました!(客席に入ったとたんおぉ銀橋!と気分が上がりました)
本舞台のセットは大きなグランドピアノを模したもので、その蓋が開いたり閉じたり回ったりしながら場面が転換します。非常に象徴的でした。
オケは生オケ(たぶん裏)で、帝劇クロージングプログラムに恥じない贅沢さにつくられてましたね〜
それにしてもモーツァルトって(わからないことも多いらしいのですが)あまりにも不遇な人生だったのですね。現代ではオーストリア土産の人気キャラクターなのに、彼が実際に生きていた1700年代は身分差別も激しく、音楽家の地位も低くて、作品がすばらしくても大した収入にも繋がらず、入ったお金はすっかり使い切ってしまう(まぁこれは自分の行状の悪いせいもある)。周囲にいた人たちもあまりあてになる友人や親戚ではなかったみたいで、借金ばかり膨らむありさま。
身近にはいないのでイメージに過ぎませんが、天才って変わった人という印象です。変わっているというより、(誤解を恐れずに言えば)欠けていると言うべきか?
妻のコンスタンツェも、いわゆる良妻賢母というわけではなかったようですが、あの天才と添うにはそれなりの魂の共鳴がなければ暮らしを共にはできなかったはずで、二人がめぐりあったことには意味があるのだと思います。私ならいくら天才でもこの人とはおつきあいできません。(もうしこまれてないけどwww)
世間でよく聞かれる、「十で神童、十五で才子(天才)二十過ぎればただの人」という成句が思い出されました。
モーツァルトは優れた作品をいくつも残しているので、二十歳過ぎてもただの人では全く無かったと思いますが、やはり年端もいかない子どもが大人も舌を巻くような演奏を披露するのと比べれば明らかに分が悪い。彼は子供の頃の自分自身の幻影に囚われ続けていたのかな〜。喝采を浴びた記憶、ほめちぎられた高揚感、それと相反する今の自分の思い通りにいかなさかげんが納得できなくて苦しんだのかも。金も、女も、名誉も、何もかも望んでいたものと違う。
それでも憑かれたようにオペラを書き、五線譜に吐き出し続けなければ体が壊れてしまうかのような働きかた。モーツァルトにとっては作曲は「仕事」というより「生きること」だったのかもしれないなー。
少年アマデが持っていた宝石箱のような箱は神から与えられたギフトで、彼がこの世に出すべき音楽が入っているというような象徴的なものだったのか?と私には感じられました。神がモーツァルトの体を借りて世に顕した音楽。一人の人間が背負うにはあまりにも重過ぎたさだめ。
観劇後の気分はあまりに暗く、終演後のロビーの沈黙が重苦しかったです。
カーテンコール後の挨拶で、「一公演終わるごとにヘロヘロ」と言っていた古川雄大の気持ちがわかります。神から愛された天才を演じるにはエネルギーが要りますよね。
最後になりましたが、真彩希帆さん、宝塚卒業作品の『フォルテシッシモ』の謎の女のような陰のある役で、懐かしかったな〜。前作の『ルパン』のようなキュートな役もいいけど、こういう屈折した感じもまたいいですね。(結局全部いいwww)
旅行中ザルツブルグでモーツァルトの生家も案内されました。
(ここをセンターに、広場になっていました↓)
(↑特許をとらなかったためにあとから様々な類似品が出てしまったものの、こちらはザルツブルグでしか売っていない、フリュストのモーツァルトクーゲルン)