観劇の話とはちょっと離れます。


SOMPO美術館のロートレック展に行ってきました。

素描画が主で、作品自体は小さいものが多いのですが、240点ほどと掲出はそこそこの数だし、今のところメチャ混みでもないので、近くでゆっくり見られます。ただし観覧券は事前にネットで購入したほうがスムーズ。チケット当日売りは並んでいました。

入口でコンビニで発券したチケットを出すと、絵付きのチケットをいただけるのも収集マニアには嬉しいポイント。





7/14(日)、妹と。

美術展はだいたい妹から誘われますが、今回は私から。


動機はミュージカル『ムーラン・ルージュ』。私は観劇すると、周辺情報が気になるタチなんです。それを知って、また理解が深まる、世界が広がるというのが楽しくて。

ロートレックと言えば、ムーラン・ルージュや様々な舞台を題材にした絵画が有名ですからね〜



あれやこれや↓





劇中登場するトゥルーズ=ロートレックとは、この「画家の」ロートレックなのか?というのがずっと気になっていました。画家としては高名ですが、芝居を書いていたというのは(あくまで私は)初耳。同姓同名の別の人物なのか??とか。


劇中クリスチャンと初めて出会った時に、自分の名前を長々と名乗ってます。「アンリトゥールーズロートレックなんちゃら」って。(←正しいかどうかはわかりません。)

画家の、いわゆるロートレックの名前はアンリ•マリー•レイモン•ド•トゥールーズ=ロートレック•モンファ(1864-1901)と言うらしく、えーと、どれがファミリーネームでどれがファーストネームなのか、異国人の私にはそれすら難しいのですが、9世紀のシャルルマーニュ時代(十字軍の頃)まで遡れる名家の出らしい。伯爵家とのことです。

画家のロートレックがムーラン・ルージュに入り浸っていた事はよく知られていますし、多くの作品群もその場所で生まれています。ミュージカル『ムーラン・ルージュ』の時代は1899年、ロートレックが亡くなったのが1901年。場所も時代もぴったりハマるので、画家本人なんだろうなぁとは思われます。ロートレックという名字の人がフランス人にどのくらいいるのかわかりませんが、少なくともあまり一般的に聞く名字ではない。ロートレックと言われれば、(あぁ、あの画家の?)と思われるくらいには稀なんだろうと思われます。


注意以降、ミュージカル『ムーラン・ルージュ』の登場人物、トゥールーズ=ロートレックが、画家のロートレックという前提で進みますのでご承知おきください。



物語の2年後には亡くなっていますから、トゥールーズ=ロートレックもサティーンと同じくこの頃晩年だったのですね。身体的に障がいがあって、本人の写真を見ると上半身と下半身の発育が非常にアンバランス。近親婚による骨の発育不全が原因なのでは?との説もあり(両親もいとこどうし)、名家には名家の問題があるのでしょう。スペイン王家(ハプスブルク家)も顎の奇形が有名ですし。

更に、アブサン(!)など強い酒をあおりアルコール中毒となり、性的にも奔放でデカタンな生活をおくった末に梅毒にもおかされ、体はボロボロだったらしい。享年36は若すぎますね。この頃は今より更に、「普通でない」ことに対する偏見はシビアだったのは想像に難くないし、消極的な自殺に近いのかも?と思っていましたが、あにはからんや、リセの頃の友達や、母方のいとこ、絵画関係者など気にかけてくれていた人はたくさんいたらしく、人なつっこくて愛すべき人物だったということで、それなりに人生を(太く短く)楽しんだらしいです。

ちなみに、劇場の美術監督をしたり、プログラムの制作に携わったりということはあったようですが、芝居を書いたという解説は見つけられませんでした。


『ムーラン・ルージュ』の中で、ロートレックがサティーンへの思慕をクリスチャンに打ち明ける場面で、「オレみたいな〇〇ものが言っていいことじゃない」というセリフがあって、その「〇〇もの」というのがうまい表現だな〜と思って聞いていました。

この単語からは「体が不自由なひと」というニュアンスはあまり伝わってこなくて、「はぐれもの、いろんな意味で世間から疎まれているオレ」という色合いを濃く感じました。放送禁止用語でもなく、ロートレックの障がいを知っている人にはそのことをやんわり感じとれることばだったと思うのですが…

芝居が終わってみると、なんとピンポイントでその単語が思い出せないタラー

答え合わせは8月の観劇後に…



SOMPO美術館の5階から4階、3階と降りながら展示を見てまわりました。






彼自身の素描作品を案内に使っているのがおもしろくて、移動の間も楽しめました。



最後に、2階のロビーにこんな冊子が置いてありまして



(美術館の所在地の)新宿の劇場文化を紹介する展覧会オリジナル冊子で、表紙をめくると大衆演劇文化の日本での黎明期としてまず宝塚少女歌劇団の紹介があり、一気に(私のww)フィールドに落としこまれました。

その後浅草カジノ•フォーリーとして発展し、ムーラン・ルージュ新宿座(1951年まで)として結実をみたという流れで、

私個人的にはロートレックを橋渡しに、宝塚歌劇とムーラン・ルージュが繋がったというわけでして。

望海さんに帝国劇場へと導かれたことも、なにもかもがここでひとつながりだったのか…と妙に一人合点してしまったのでした。

ロートレックの晩年4、5年ほどはとても充実した活動期だったらしく、夭折した天才を想い、なんだか少しだけ救われた思いで新宿をあとにしました。