6/13(水)11時

友の会で当選、A席二階のセンターブロックにて。


初日を観劇して二週間。

20回近く公演も終わり、熟してきた頃かと。

あと少しで千秋楽ですね。


本日のながめ。
舞台は遠かったですが見通しは良き。




決して悪口でも反論でもないんですが、

「あたたかい」「愛にあふれた」という方向の絶賛の声の多い中、違う感想を持つ人もいるという程度で見てもらえれば。ということで、先に進むのは若干注意でお願いします。



まずはじめに、礼真琴のパフォーマンスはすばらしかった。経験を積んで自信もついて、いい意味で力の抜けた、コントロールのよくきいた歌唱は言うまでもなく、カッコよくはない、やや間の抜けた愛すべき主人公の人となりをうまく表現できていたと感心。本当に円熟期ですね〜。こういう役を演ると、ちょっと宝塚を超えてきた感じがします。


 

嘘をつくひと


その上で敢えて私の苦しい気持ちを吐露することになりますが…

初日を見た時、私の率直な感想というと(この人、苦手だな〜)ということでした。

物語の主人公に寄り添えるかどうかはすごく重要で、いったん苦手と感じてしまうと、もう何を見ても胡乱な印象。もちろん全然礼真琴のせいじゃなくて…むしろ逆に、造形は素晴らしかったとさえ言えるのではないかと思うのですが…


そんな知り合いのいない人は自分の幸せを喜んでほしいのですが、息をするように嘘をつくひとってほんとにいます。なんのためかはわかりません。保身のためか、何かをごまかすためか、はたまた周りを楽しませるためか。もしかすると言ってる本人も嘘だと思ってないのか?嘘だとバレてることがわかってないの?不思議でしかたないけれど次から次へとバレバレの嘘を重ねていく。周辺はまったくもって平穏じゃない。たとえ実害はないとしても、いつもいつもさざ波が立っているような感じ。「そんなの嘘だよ」と断じたり、できたらつき合わずにいられたらいいけれど、どうしても付き合わざるを得ない場合、(親子とか?上司とか?恩や義理のある相手とか?)いったいどんな心持ちで接したらいいのか悩ましい。適当に相槌を打ちながら、心のなかでは(嘘つきめ、と)相手を否定し続けることは、なかなか辛いことです。

ウィルが父親を苦しそうに否定するのが、わかりすぎてしんどくて、時々物語に耳を塞ぎたくなりました。



だれが相手でも変わらないひと


エドワードのもう一つの側面として、人との距離を気にしてないということがあろうかと考えます。

ドン•プライスたちアシュトンの村人はエドワードのことをうさんくさいやつと思っている、なぜならエドワードが相手との距離をはからないから。

カールは、自分を避ける村人と違ってエドワードが変わらず接してくるのに、はじめはとまどう。なにか企みがあるのではないかと、疑ったと思う。

しかし実はエドワード自身は少しも変わっていない。対する相手によって変わるところがない。


多くの人は自分がどう思われるか気づかいながら生きているのだから、こういう、相手との距離をはからないやりとりにとまどう、あるいは苛つくだろうと思います。

ウィルが「(パートナーの妊娠について)今はまだ話さないでほしい」と頼んでおいたのに、約束を平気で反故にする。エドワードに悪気はなかったとしても、息子の方は(やはり裏切られたと)舌打ちする思いだったでしょうねぇ。これまでも、大なり小なりそんなことのくりかえしだったことは想像に難くないですね。



可能性としてですが、、、

エドワードはグレーゾーン寄りのひとではないかと感じます。もう少し違う表現なら「空気の読めない人」。

そういう人の中には、他の人となぜ上手く付き合えないのか悩む人と、上手く付き合えてないことにも気がつかない人がいますが、エドワードは後者。

周りの人を戸惑わせるけれど、自分ではそれに気がつかない。想像の世界に遊び、見えないものを見る。

彼にはいい意味で偏見や計算がない。自分の心の赴くままに動く。それを相手がどう思うかに関係なく。ある意味純粋なのでしょうね。

もしこういう人が近くにいたら、周りの人のほうが気を遣わないと思わぬトラブルになりかねない。エドワードとウィルの確執や、ドンたち村人との関係も根っこはたぶん同じ。



自分の内側を覗きこむこと


ただのハートウォーミングな物語とは思えなくて、観ていて苦しくなる。エドワードと比べて、自分は偏見に満ちた人間なのだと突きつけられる。彼のまっすぐさが私を傷めつける。自分を苛つかせる人にはできたら近づきたくはない。

けれどその怖れとは逆に、もし現実に隣にそんな人がいたら、踏み込んでくるその人をうまくいなせたらいいと願う。「嘘つき」と断ぜずにうまく笑えたらいいとは思うのだ。自信は全く無いけれど。


いろいろ考えさせられる作品は好き。

共振だけでなく、反発でも内省でも。

自分の内側を覗きこむこと、演劇の掲げる光の導きなのかもと思います。

あと二日の公演、(版権の関係で)記録には残らないものの、人々の心に残る作品となったことはたしか。無事の千秋楽を迎えられますように。