11/8(水)1330
読売大手町ホール、セディナ半館貸切公演。
全席指定で同一料金13000円、最後列の隅っこ(キャパ500席)でした。
上演時間2時間、幕間は15分。
この夏映画館で劇団☆新感線の『薔薇とサムライ2』を見て、生の天海さんを見たい!という勢いで目についた公演に申し込みましたので、作品や、その他の出演者についての予備知識を持たず観劇となりました。
https://tspnet.co.jp/whats-ons/ladym/
今日は月組の『フリューゲル』とダブルブッキングしてしまって、そちらは娘と、同行者には娘と同世代のお嬢さんにチケットをお譲りできてひと安心。
客席は、平日の昼間ということもありましょうが、ほぼ女性。日本のエンタメ界を支えているのは女性客ですね~
10/1が初日で東京で一カ月半、京都で10日のほぼ2ヶ月。
第一印象としては、(この規模の興行としては)なんと長丁場な!
開幕アナウンスで麗々しく流れる協賛各社「TBS、読売新聞社、研音」のガチメジャーなスポンサーの名前に、ひれ伏すというか、ちょっと引く感じ
大スターですね。知ってたけど。
読売大手町ホールは、大手町駅C3直結。読売新聞社本社ビルの四階。二階席というのはなく、ワンフロアなんですが、後方席はエスカレーターで一つ上がってくださいと案内がありました。すごく傾斜があって、前の席のかたがよほど座高が高くない限り肩まですっぽり背もたれに隠れる座席で視界は良好。頭をもたせかけることができて、楽でしたね~
ワタクシ『マクベス』を観たこともありませんし、ほんとにど素人の感想なのでご勘弁願いたいのですが、まずなんと言っても、セリフ長っ!
これ、、、朗読劇でよかったのでは?
さしたる動きもありませんし?
舞台装置(大道具)はうんと目の粗い鳥籠のような(支柱は4本)おそらく金属製の大小の被せものだけ(天井から吊り下げられていて上り下りします)。それと、ちょっとだけ盆?が回るようです。すこーしずつベンチの位置が動いてました。
こんな感じ↓
(公式より)
内容も、たぶん正統派マクベスとはだいぶ違いますよね?国や時代も明確にされておらず、場所もほぼ「ある室内で」起きている会話劇という感じ。
ジュード・クリスチャンという女性の舞台ディレクターの作とのことですが、あまりメジャーなクリエーターではないらしく、ほとんど情報がない。(パンフレット買えばなにかしらあったのかもしれませんが、最近パンフレットを買わないようにしているので)
えーとまず、この作品を観るいちばんの目的だった天海さんですが、その一点については充分満足しました。ほとんど大きな動作もなくただしゃべってるだけなのに、その抑揚や呼気にハッと感じさせられることが何度もありました。全身黒のドレスでの立ち姿が美しい。笑うことがない芝居でしたが、その凛とした感じがもう、イメージどおり
鈴木保奈美や要潤などテレビで見るようなかたを実際に見られたのも一興。
あとは著名なバレエダンサーのアダム・クーパー。天海さんが個人的にファンだというのはテレビで拝見して知りました。しかしこの作中、本職のダンスもなく、ほぼセリフもなく(ほんの少しだけ日本語。あと、ちょっと英語のセリフあり)、なんかすごい難しい立ち位置だったのでは?てか、このオファー、どんな意味が?演出のかたと旧知のようですから、そのあたり?とやや謎もありましたが、ほかの出演者のかたもそれぞれに、熱演でした。セリフは長くて理屈っぽかったり、抽象的な表現を(なんだろう、と)考えているとついていけなかったりして全て理解することは難しいと思いましたが、セリフの端々にその人物の人となりみたいなものはよく現れていて、それぞれの役割がよくわかるものになっていたと思います。余談ですが、これ、文化の違いもあり翻訳はさぞ大変だったでしょうね。
内容について、このあとちょっとネタバレかも?の部分があります。
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と言っても、ネタバレもなにも、(なんかよくわからなかったぞ)という気分なので、どう書けばいいのか悩むところです。
戦いが絶え間なく続いていて、どうすれば、いつ、この戦いは終わるのか?というのがひとつの命題。
王を継ぐものは王を倒して即位するのがデフォルトらしいのですが、思いどおりにならないからと短絡的に現王を殺害した結果、「どうする?」というのが観客に投げかけられたもうひとつの命題かな、と思いました。結論をはっきり提示せずに観た人にそれぞれの考察を求めるといういかにも、演劇とはこういうものみたいな尖ったのが、今の私には若干めんどくさく感じられて。めんどくさいと言うと語弊があるのですが。んーと、、、現実に国際的には戦争をしている地域があり、その「憎しみの連鎖」を日々見せつけられては無力感に苛まれ続けていることと無関係ではありません。考えるのにも疲れています。自分と自分のだいじな人が静かに暮らせればいいだけなのに、何を求めて争いをするのか?領土(実りのいい土地、凍らない港)とか労働力(奴隷)とか、古代にあっては力で奪い取るものだったのかもしれませんが、もういいかげんそういう考えは改めるべきではなかろうか、と日々思っています。
自分の思いどおりにならないからといって、夫を射殺した妻、その母のやりかたを許せないと射殺した娘に、こんどこそ突きつけられる難題。
「どうする?」
追記
今さらですが公式ホームページに以下の記載があり
↓ (抜粋)
「ウィリアム・シェイクスピアの『マクベス』の登場人物であるマクベス夫人。
彼女は主人公マクベスの妻という存在でこの戯曲の中に登場します。そしてその強烈なキャラクターは、時には「国を滅した女」、「悪女」など様々な形容を持って語られます。
しかし、ここまでシェイクスピア作品の中で「有名」なキャラクターにもかかわらず、なぜ彼女は名前を与えられなかったのだろうかという疑問が頭をよぎります。『ハムレット』はガートルードだし、『オセロー』ではデスデモーナ、『リア王』に至っては2人の夫人を含む3人の娘にしっかり名前があります。
名前は、人としての存在を証す根本であり、誰もが自分自身の名前を与えられる権利があります。名前がない。「〜の夫人」としてのみの認知。誰かに依存しなければ、自分の存在価値を認めてもらえないような感覚、レイディマクベスは幸せだったのか、そして彼女が本当に手に入れたかったものは何だったのか、その理由を探求したくなったことから、この新作は誕生しました。」
これ、作者の弁でしょうか?
私としては、マクベス夫人に個人の名前がないのにそれほどの違和感がありません。日本人だからでしょうかね?だれだれの娘、とかだれだれの妻とか古代にあっては日本ではわりとスタンダードだったかと。
でもここがほんとうに物語の着想の発端だったとしたら、作者の言わんとすることはそんなに普遍的なことでなく、もっと個人的なことなのかもしれませんね。
ま、作品が公開された以上、観た人がどうとらえるかは、観た人の感性に任されていると思いますのでそれはそれとしてということにて。