9/15(金)11時公演
友の会で娘が当選。A席で、二階G列上手、センター通路寄り。
二回目にて最後になります。
初演(バウ)は映像でしか見ていませんが、このタイトルを見たときからすごく気になっていたのが『双曲線』とはなに?ということ。
ちょっとだけ調べてみました。
数学苦手な私にはちんぷんかんぷんなのですが、私たちのよく知る双曲線としては、反比例のグラフもその一つらしいです。
えーと、つまり?
石田先生は玉川大学文学部卒業のようなので、理系に深い理解があるわけではなさそう。となると、イメージ?じっとこのグラフを見るに、交わらない、というのが見てとれます。最も近づいても交わらず又離れていく…。小説『無影燈』の、石田先生のイメージはそういう感じだったのでしょうか?初演のパンフレットがあれば、その辺りが書いてあるのかもしれないですが、入手しようもなく。
ただ今日よくよく聞いていたら、そらくんのソロ曲で「双曲線のグラフのように交わらない」的な歌詞があったので、おおむねそれで正しかったのかなー?
そして一方、原作の『無影燈』ですが、こちらにも言葉の歴史があり、https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%BD%B1%E7%81%AF
興味があれば詳しくは読んでもらうといいのですけど、煎じ詰めると、昭和初期に特許申請された「無影橙笠」という特許名が語源のようで、わかりやすさからメーカーがカタログに載せたことから広がったようです。

こちら無影灯を翻訳した和製英語で、正しくは英語では次のように言うそうで。
⭕oprating light
いやまぁ、そりゃそうですけど…なんというか情緒が感じられないです。
性能をわかりやすく表した上に、なにか湿った情緒が感じられる『無影燈』という単語。渡辺淳一という作家その人は感心しない行状の方だったようですが(いわゆる女遊びは芸の肥やしみたいなのを地でいくかんじ)、日本語のセンスというか、言葉を選びとるアンテナは優れているなーとおこがましくも(笑)
さてそのタイトルに込められたイメージを重ねながら芝居をみていくと、さまざまな広がりがを感じました。
病院が舞台なので、「無影燈=影を作らない照明」というのは手術ひいては病院を象徴する題名かと思いますが、深読みすれば、主人公にとってのヒロインの明るさや強さを言っているのかも?と考えたりします。また医療全体を指すとも考えられ、病名を告知するか否か、終末医療にどう寄り添うかなど、外科的技術のみでなく人の生き死に深く関わる「医療のありかた」のようなテーマ性も感じられます。
また『双曲線上のカルテ』という題名であれば、病状の記録に重ねながら人生を描き、ひとつとして同じものはないと。それぞれの人生、選びとるのはその人自身というような前向きなメッセージも感じますね。
見終わって腑に落ちない気持ちなのは、原作ありなのでしかたがないものの、どうして自殺で幕引きなの?というのがどうにもねぇ…
二回見て二回とも、フェルナンドの訃報を受けた後「どうして教えてくれなかったの?」というモニカの絶叫にじわっ。まったくよ…
フェルナンド勝手過ぎる
「自分の人生の使い方は自分で決めた」と言うけど、モニカを巻き込んでおいて彼女を蚊帳の外に置き去りとはあまりに残酷。治らない病だし、辛い痛みではあるのだろうけど、打ち明けて最後まで一緒に伴走してくれるように頼んでもよかったんじゃないの?モニカならきっと最後まで照らしてくれた。ランベルトだってもっと強く治療を勧めてもよかったじゃん?「治療したいというのは先生の勝手です」とピシャリと言われて後退するのでなく、縣にはもっと熱苦しい役でいてほしかったわ~


えぇでも、原作ありですからね。変えられない点があるのはわかります…膝をつくあがちんの無念が胸を打ちました。
モニカがホスピス(終末医療)に関わっていること、息子を授かって幼子を育てているらしいこと、ひまわりの群生がこの夏も元気に咲いていること、それらをエピローグとして話が終わるのがせめてもの救い。
あー重かった

でもなんかこれぞという雪組、という感じがしたのは私だけでしょうか。
フェルナンドの故郷の湖の湖畔で雪が舞うシーンを見て、『壬生義士伝』を思い出しました。
そうそう、雪よね~
どうしても救えない命よね。
大義、覚悟、自己犠牲、そして死。
どうしてこんな結末しかなかったのかという歯噛みする思い。
しょっちゅうそんな気持ちを味わってきた、むしろホームのような懐かしさでした。
帰りに局地的なゲリラ豪雨に遭遇。
雨と雷のなか、大急ぎで帰途に。
ソワレ観劇のかたはたいへんだったでしょうね。
来週は花組『鴛鴦歌合戦』を。
泥沼の悲劇から洒脱な喜劇へ。
宝塚の懐は深い。