皆様のブログに刺激を受けて、サパを見た感想を私なりに書き残したいと思いました。
ちなみに配信は見ていません。たった一回の観劇だけでの振り返りになりますので、記憶違いや勘違いはご容赦ください。

それと特定はできないと思いますが、どなたに対しても、決して反論ではありませんので~m(__)m
あくまで私個人の感じかたということで悪しからず。

ミレナが「全体」として自分の中に全てを内包したあとでも、(発狂するでもなく)なんだかとても普通に感じられたのはなぜなのか?
これは舞台を見ているときも若干疑問には思いましたが、私はあの、「布と光で表されていた統一の過程」がどこかの時点で失敗したのではないかという方向に、自分の考えの舵を切りました。総統01(ミレナの義父)は「(統合は)終わった」と言っていましたが、何か予測不能のファクターがあって、うまくいかなかったのではないかと。ミレナ自身の記憶はもどり、将来に自覚をもって取り組もうとする礎はできたけれど、ほかの人の記憶はすりこまれなかった説(笑)にすばやく自身を納得させて、以後の舞台を追うことに立ち戻りました。
またもうひとつの可能性として、異世界ではありがちな安易な逃げ道ですが、もしかしてミレナという個体のスペックが予想を超えていて、「全体」もミレナ個体の中に呑み込んでしまったのでは?とも考えましたね。

意識がひとつのマザーコンピューター(サパではこれがミレナに当たる)に統合されるという世界は、かつてはSFで、そして今では徐々に現実味を帯びてきているのを感じています。
わかりやすい例で言えば、私たちがスマホであれこれ検索していると、それが興味の対象として集積されて、自分のスマホに類似情報が表示されるようになっていますよね?どんな買い物をしたかも、ポイントカードやクレジットカードで分析されて、「次はこんな商品いかがですか?」と聞いてくる品がまた、自分の好みに合っていて、捜す手間も(あるいは楽しみ?も)なく、安易にポチっとしたりします(笑)これがつまりAIに飼い慣らされるということなのか?と疑心暗鬼になりつつも、便利なツールを使うのに抗うことも難しいです。そんなふうに自分の個人情報が不正でなく(←これが怖い)、むしろ大っぴらに?集められているのが今の社会。
サパでの「へその緒」に当たるのが、私たちの手元にいつもあるスマホなのではないかと勘ぐりました。(名前の付けようのない恐ろしさがありますね…)

大きな戦争や災害や事故があったとき、「記憶の風化」をいかにして防ぐかという問題がいつも提起されます。映像などが残せなかった時代は語り部によって、今は映像もフル活用して後の世に語り継ごうとしています。ある意味、情報よりも昔から、記憶は集められていますね。ただサパの総統が逸脱していると感じるのは、辛い記憶だけでなく全ての記憶を人々から抜こうとすることで、それが人々の幸せに繋がるという考えだからだと思うんです。総統の(すばらしい?)考えに反して、オバクは「失くしたくない」と、抵抗してますよね?そして物語の展開として、個々の記憶は無くなってはいなさそうでは?
それで私としては、「全体」への統合がどこかで中断というか、失敗したのではないか?と感じたのです。それが、「正しい」あるいは「人として健全な」ことではないので未遂に終わったのでは?と。そこ、神の領域です。暴走した科学者というものは「神」になりたがるものです。

辛いことは思い出したくないというのが自然です。血縁者や友人を失ったこととか、心や体が傷ついたこととか、忘れてしまいたい記憶も確かにあります。でも、そういったことごとも含めて自分というものが作られているんだなぁと来し方を振り返って思い知る昨今。悪い思い出に限らず楽しかった思い出すらも、忘れていることはたくさんあります。きょうだいや学生の頃の友達と話していて、そんなことあったっけ?そんな人いたっけ?みたいな事が多過ぎて、もはや自分の記憶の不確かさに呆れるほど。記憶というのは元々曖昧で、自分の 覚えていたいことを、あたかもほんとうにあったかのように頭に残しているという説もあるくらい。美化された記憶というのもその一つ。人間はレコーダーではありませんから。どうしても自分の主観も入りますしね。でもそんなふうに曖昧でありながら、他人によって勝手に消されたり書き換えられたりはすることはできるものではない。頭のなかをいじられるというのは、SFでは昔からよくあるパターンの一つです。そしてその事が肯定されるようなストーリーは、あったとしても、大衆に受け入れられることはない。どちらかと言えば記憶操作は、「悪」の象徴として描かれることが多い。辛いことは忘れたいと願ったとしても、引き換えに他の記憶まで消されることを許容できる人は、おそらくかなり稀でしょう。

結局辛いことを抱えたままで、人は一回の人生をまっとうするしかない。
最後にミレナが言ったように、「希望」に繋がるかどうかは人それぞれ。それでも定められた命が尽きるまで愚かしく生きていくしかない。

宝塚で芝居を観たとき、役者の巧さに唸らされることもあれば、そのビジュアルの再現率の高さに舌をまくこともあれば、圧倒的華やかさに射ぬかれることもあるのですが、芝居そのものに共振することは私はあまりなかったような、、、むしろ(いや、そりゃないわ)と、突っ込みながら観ていることも多かったかも。
宝塚の華々しさや、夢にあふれた世界観は、それはそれとして楽しんでいて全然オッケーなのですが、芝居の人物に共鳴できたときの感動は、また別物ですね。
フライングサパは私にとって、そういう稀有な芝居でした。

無事に千秋楽の幕がおろせたこと、それもまた今の時代稀有なことでした。

フラサパチームの皆さん、まことにおめでとうございました。