少し前に書いた記事が少しずつ輪郭を帯びてきました
ここに書いたことと繋がるのですが、最近"供養"というものについて考えさせられました
私はずっと過去を癒すことに取り組んできました
もちろん、未来を創るためだという想いはありました
だけど、過去を癒そうとしすぎるあまり、過去に囚われてしまった側面があったと思います
過去の私を救いたかった
それは大切なことだけれど、前の記事にも書いた私の役割の個性もあると思いますが、バランスとして過去の私に寄り添い救おうとするよりも、未来を創る方に比重を置く方が結果的に過去の自分をも救うことになるとわかってきました
そのように切り替える時期が来たというだけのことかもしれません
今までが間違っていたということでもないかもしれません
過去を癒そうと尽力したことで、そして実際にある程度癒されたことで、このような気持ちになってきたのかもしれません
今までの自分が、苦しみながらも、間違えながらも、精一杯その時その時の答えを出しながら生きて、今日まで道を繋いできてくれたこと
そしてそれを導いてくれた存在がたくさんいること
その過去に感謝と敬意が湧いたとき、私は前進しなければならないと強く思った
"過去は変えられないから、後悔しても仕方ないから、とにかく未来をよくすることだけ考えて前に進もう"というものとは徹底的に違うと言いたい
表面的には同じに見えたとしても
過去とひたすらに向き合ってきて、たくさんの後悔を抱え、同時に感謝と敬意を抱き、それを未来へとしっかりと繋げてゆく
生きたくても生きれなかった自分、なりたくてもなれなかった自分を少しでも生き直す
過去への後悔と感謝、そして後世へと託す願い、その両方を携えて現在を生きることに、何か時空を越えさせるものがあるような気がする
そのような前進、過去を未来に繋げようとする歩み、それそのものが過去を癒してゆくような気がする
それが供養の姿でもあると思うのです
先祖の無念と願いを背負い、そこに敬意を抱きながら、そして敬意を抱くからこそ、しっかりと前を見据えて前進し、自らの人生を丁寧に紡ぎ、未来へと託す
彼らの無念と後悔から、人間として誰もが奥深くに抱く強い願い(よりよく生きたい、カルマを超えたい、本当の自分を生きたい、自らの魂願を全うしたい、自らの使命を果たしたい、世界を調和させたいなど)を感じ、共に今その想いを生きようとする
願いを生きようと何度でも生き直す
今日の後悔を願いに昇華して明日の自分に託す
その願いを少しでも生きることができたとき、その過去の自分は癒されていく
過去の自分=先祖でもある
先祖への報恩供養とはそのような生き方にあると思う
私はエネルギーを注ぐ方向性を間違えてきた
恩を返す方向性を間違えてきた
私は本当の供養をこの生きる姿でもって果たしたい
繋いでくれたバトンを大切に生き、後世へと大切に繋ぎたい