最近、やっと、"そうならざるを得なかった自分"を労り、ただただよくがんばったねと言ってあげられるようになりました




そんな中で、少しずつ気づいてきたことがあります



苦しみに寄り添い、癒し、助けようとする役割と喜びや願いを助け、増幅させようとする役割


人の仕事や役割には大きく分けてこのどちらかに比重があると知りました


私の役割は前者の方だと思っていたのですが、もしかしたら後者なのかもしれないと思いはじめました



私は小さい頃から苦しみによってしか、それを共有することでしか人との関係が築けない、そのような関係しか知らないところがありました


だから当然前者の方になるし、それは道徳的にもよいイメージがあるので、がんばってきたのですが、何かが違うような、どこか合っていない感覚はありました



あまりに自分の人生から程遠い感じがして、やり方もよくわからないけれど、私は後者の役割のような気がしてきたのです


私の人生の中で自分という人間が一番生かされ、私自身も楽しかった感覚がある時期(僅かしか体験がありませんが汗うさぎ)のことを思うと、後者の役割をしていることに気づきました


人の願いや喜びを引き出し、増幅させたい


私のエンパスもその増幅に使いたい


人と幸せや喜びを共有したい


喜びによって人と繋がりたい



そういう気持ちが出てきました


私はずっと知らず知らずのうちに、自分の喜びを抑圧してきたように思います


そういう環境で育ったというのが大きいですが、世の中に苦しんでいる人がたくさんいる中で、私が喜びの気持ちを感じるというのはどこか失礼なことのように感じていました


幸せは一つという気持ちも強かったので、うまく言えませんがみんなが幸せでなければ私も幸せではないし、その状況で喜びを感じるなんて基本的にあり得ないことのように思い、喜びや幸せを感じた自分にどこか罪悪感も抱いてきたと思いますし、はじめから感じないようにできるだけ抑圧してきたと思います


自分が恵まれている部分を喜んだなら、それが恵まれていない人を蔑んでいることになる気がしていました



確かに幸せは一つだし、みんなが幸せでなければ完全には誰一人幸せになれないというのは事実ですが、それは最終目標地点であるし、この世的には一人一人幸せは違うというのも事実だと思うんです


例えば私がテストで100点とったことが幸せで喜びでも、他の人にとってはそれが特に喜びでないことは当然ありますし、そういう"一人一人の幸せの違い"が役割の違いや自分の場所や使命を見出すための指針になってゆくのだと思います


そしてその"みな一つの幸せ"に到達するために、周りの状況に関わらず、いえ、周りの状況をも背負いながら、私は私の喜びを感じていかなければならないし、私の幸せをその中で作っていかなければならないんだということを強く思いました


見方を変えれば、言い訳をして自分を幸せにする努力から逃げていたとも思います



それに、自分が恵まれている部分を本当に喜ぶことで、それが力となって苦しいことも乗り越えていけるんだということも感じました


苦しいことを乗り越えたら喜びがあるというのもありますが、喜びがあるから、喜びの力で苦しいことが乗り越えられるというのもあると思います


その与えられた恵みの分、さらに自身の本当の幸せを拡大してゆくのが恵みに応えることだと思います


そしてそれらを誰かとお互いに共有できたら最高です



喜びを無意識に抑圧することで、人が私に与えてくれる愛もどこか完全には受け取ることができずにきたと思います


その愛に言葉で感謝するよりも先に、本当はその愛を心の底から喜ぶことが私には必要だったんです



これからは喜びに生きることをまず第一にしていくことを決意しました


あらゆる場面で喜びや幸せをいちいち(笑)たくさんじっくり感じて、どんどん共振共鳴していくようにします


悲壮感をぶっとばせ(笑)ゲラゲラ




私のブログは「春光」「春閑」「春礽」と続いてきました


「春礽(シュンジョウ)」は2020年にはじめましたが、このタイトルに込めた意味がいよいよ芽吹きはじめたような気がします


礽は幸福、幸いという意味です


みんなで真実の幸せに向かっていこう



そんな思いで選んだブログタイトルです



柔らかく透明に純粋にひたむきに、喜びいっぱいに真の幸せへと向かっていこう‼︎



春礽