大学4年間で何をしてたかと言うと、サークルと飲み会。
勉強はしていなかったのは言うまでもない。
それでも授業はちゃんと出てたけどね。

そして、恋愛


大学1年
高校まで人見知りで地味めな僕だったが、所謂大学デビューをしてみた。
とりあえずコンタクトレンズにしてみる。
髪型もストパーかけたり、坊主にしてみたり真っ赤に染めたモヒカンにしてみたり。


所属したゼミにとてもキラキラした女の子がいた。マドンナ的な存在だ。殆どの男子が新歓コンパではその女の子目当てだった事は後々知ることになる。

僕はと言うと、もちろんその女の子も可愛かったのだが、英語のクラスで一緒だった女の子に惹かれていった。
背が高くてすらっとしていて。
授業中、授業後色々と話したり、誕生日を祝ったりしつつ。
彼女に貸してもらったCDがJUDY AND MARYのベスト盤。中学の頃にMIRACLE DIVINGを聴いてたけどそれ以来のJUDY AND MARY。
彼女に近づきたくて、ひたすら聴いたな。
けど夏に行ったゼミ合宿を機にお互い話さなくなって行った。

10年後に友人の結婚式で偶然会った時は相変わらず綺麗だった。


大学2年の春
軽音サークルに加入
前述したマドンナ的な存在の女の子も一緒に入部。
気がつけばいつも一緒に過ごしていた。
大学2年の冬、サークルの定期演奏会後、他の部員と付き合っているのを知って強くあたってしまった事もあった。きっと好きだったんだろう。
それを謝りたくて、永田町の駅で気まずい雰囲気にもなったっけ。

大学3年
キャンパスが埼玉から東京都文京区に変わった。
周りが就職活動の準備をするのをよそ目にのほほんと過ごしていた。
恋愛の方はと言うと、新たな出会いがあるわけもなく、少し枯れ始めていた頃でもあった。
それでも、1年の頃から良くしてくれていた1コ上の先輩に惹かれ始めていくのである。
とにかく明るくて面白くて一緒にいて楽しい。
冬、先輩が卒業まで2ヶ月と迫った時期。
友達と飲んでいたが、今言わなきゃ後悔すると思い、23時頃だったけど友達と別れて、先輩を飲みに誘い朝まで飲んだ。帰り際、思い切って、、、

気持ちを伝えたかったが。意気地のない自分にがっかりし、自己嫌悪に陥った。
その後、その先輩とは何度かあったりしていたが、気づいたら卒業式の前日になっていた。
明日になれば先輩は地元に帰ってしまう。すぐに会える距離ではないし、、、
サークルの帰り道、色んなことを考え巡らせていたら乗り換え駅を過ぎてしまっていた。

用賀駅で降りて、ため息1つついて電話をかけることにした。

自分の気持ちを伝えて、少し間があったけどOKがもらえた。
しかし、次の日にはもう離れ離れである。
池袋駅で別れ際涙が滲んでしまった。

次に会えたのはそれから2ヶ月後。大学4年のGWである。
中間地点の仙台で会うことになった。
しかし、この頃から本格的にバンド活動をするようになっていた僕は彼女の気持ちが少しずつ重くなっていた。
結果、大学4年の秋にはお別れをしていた。

自分本位な別れ方だったとずっと後悔していた。


しかし、それから15年が経った2019年
もう2度と会う事はないと思っていたけど、共通の先輩からの誘いで一緒に飲むことになった。
あ、この話はまたいずれどこかの機会で。


彼女と別れてからは、自分自身に残されたキャンパスライフもあとわずかで、今更、恋愛なんてする時間もないし、バンドで精一杯であった。

しかし、何だかんだ言ってそばにいてくれたのは、マドンナ的な存在の女の子である。
気づいてはいたけど、気づかないふりをしていた。
卒業式の3日前から毎日会ってカウントダウンしていた。

卒業後は2回くらい会ったけど、7〜8年前にSNSで結婚の報告を受けた。優しそうな旦那さんだった。まぁでも悔いも後悔も一切ない。



そんな訳で、夢にまで描いていたキャンパスライフはあっという間に幕を閉じてしまった。
今振り返ってみると、もっとやれた事はあったかなと思うけど、友達がいなかった僕にとって仲間と過ごす時間が何よりで恋もしたけど、くだらない話で笑いあえる時間が幸せだった。

後悔しても、やり残した事があっても、立ち止まりたい時もあるし、あともう少しだけと思う時もあるけど、確実に明日は来る訳で、明日の僕にバトンを渡さなければならないのです。

秒速5センチメートルでしか進めなかったとしても明日を精一杯生きるのです。


さて、長々と書いてしまいましたが、次回から5章に突入です。
お楽しみに!

ってか、このブログ誰が見てるんだ?w
2005年4月1日 
親との約束通りベースのレッスンに通う。最初は3か月のつもりだったが、通っているうちに楽しくなっていき最終的に3年間も通っていた。 

大学を卒業してからはバンドメンバーが近くにいた方が何かと便利ということで、八王子に越すことになるが、ここでも親を説得するのに手こずり自分は一足遅れて7月3日に八王子に引っ越し。 

初めての一人暮らしでドキドキワクワクだったが駅まで徒歩30分。スタジオも駅前、職場は世田谷。毎日往復1時間は歩かなければいけなかった。雨の日も雪の日も台風の日も。たまにタクシーも使った。 
それでも練習は楽しかった。ライブも楽しかった。 
けどどちらかというと、この頃はあまり納得のいくライブが出来ず、ステージに上がる度に足は震えるし演奏はメチャクチャになるし・・・ 

2005年の7月に渋谷屋根裏での2度目のオーデションでやっと合格して11月に初めて夜にライブをやらせてもらった。この時のライブで対バンのスプリングフィールドと意気投合して今でも付き合いがある仲間でもあるし、辛い時支えてくれたお友達である。 

2006年4月 
下北沢cave-beでのライブ。このライブは今までのライブの中でも2番目に良い出来だった。 
またこの頃からレコーディングに入る。3枚目のデモCD。最後のおまけに俺のへたくそなギターと音痴な歌声が収録されているプレミアムCD。 

2006年5月25日 
東京近郊ジェニレーション 通称『525(ごーにーご)』 
ジェニファー初企画ライブ。 
あれだけの人の中でライブをやるのは初めてだったし、ステージに上がった瞬間、失神しそうになった。そして個人的に課題がたくさん残るライブになった。 

イベントが終わった直後から2回目に向けて取り組むが、9月ころからバンド自体が末期状態になっていった。何も口を利かずに4時間練習をしたこともあった。 
地獄だった。 

東京近郊ジェニレーション2の1カ月ほど前になって俺が脱退表明。 
11月29日の東京近郊ジェニレーション2をもって脱退することが決まる。 
でもそんな末期状態にありながらも、この日のライブは個人的には最高のライブだった。 

ライブの翌日八王子駅前を歩いていたら偶然メンバーと遭遇。やっぱりジェニファーからは逃れられない運命なのか…と思いつつ酒を飲む。 

ジェニファーを脱退してからもベースを弾くことは止めずレッスンにもしっかり通っていた。 


そんな中バンド仲間から新しくバンドやろうぜって事で話も持ちかけられ、それに合わせて仕事も変えることになる。 

【参考】 
2006年 ジェニファーライブ 

01/17(火) 渋谷屋根裏 
01/25(水) 八王子MUTCH VOX 
02/22(水) 渋谷屋根裏 
02/24(金) 池袋手刀 
02/27(月) 渋谷屋根裏 
03/02(木) 八王子MATCH VOX 
03/08(水) 渋谷屋根裏 
04/11(火) 八王子RIPS 
04/14(金) 下北沢CAVE-BE 
『LUCKY DIP SHOW vol.21』 
05/25(木) 渋谷屋根裏 
ジェニファー presents 
『東京近郊ジェニレーション SCENE.1』 
06/13(火) 池袋手刀 
06/27(火) 八王子RIPS 
07/01(土) 八王子HAVANA 
Gateway presents 
『Gateway FESTA Vol.4』 
07/03(月) 渋谷屋根裏 
07/11(火) 八王子RIPS 
07/16(日) 下北沢GARAGE 
lifetime presents 
『ピース OF MUSIC vol.1』 
08/28(月) 渋谷屋根裏 
09/17(日) 下北沢CAVE-BE 
Flatter presents 
『mixed color stream~zero~』 
09/20(水) 渋谷屋根裏 
10/23(月) 渋谷屋根裏 
11/29(水) 渋谷屋根裏 
ジェニファー presents 
『東京近郊ジェニレーション SCENE.2』 


ライヴ計21本、MC担当3~4回。デモCD1枚。営業1本。 

晴れて入学した大学。期待に胸を膨らませて入学した大学。 
そこには期待通りのキャンパスライフが待ち受けていた。 
毎日のように友達と遊んでは下らない話をして酒を飲む。 
たまに恋に破れては酒を飲む。 
何かイベント事があればとりあえず集まって酒を飲む。 
最初の1年間は酒と恋の話がメインだった。 


2年生になると人生の転機を迎える。このあたりからありふれた人生のレールを踏み外して、それでも世間一般に見れば大した事でもないが、先の人生で貴重な経験をすることになる。 
音楽サークルへの参加。友達に誘われて入ったこのサークルでJENNIFERは出会う。 
しかしバンドを結成するのは2年後。 
その間にサークルでは色々な音楽に触れ音楽性を磨いていく。 
メタルを中心にコピーしていたので、スピードには些か自信があり、 
『健さんといえばメタル』と言われるほどメタルイメージが定着した。 

そして3年の12月にサークルを涙涙で引退したあとは自己のバンド「手羽先尾張場」を結成するもすぐに自然消滅。 
途方に暮れていた時、高橋千尋から「ジャムろうぜ!」との誘いがある。 
今井勇樹や並木景介とジャムったが4人が揃うことはなく、ただジャムるだけで終わっていた。 
しかし運命の日はやってくる。 

2004年の6月 
高橋千尋、今井勇樹、並木景介、小原健が一同に集結する。 



ジェニファーで初めて作った曲は、『シャボン』『jenny’s punk』 
大学の練習室かりたり、池袋でオールナイトで練習したりと着々と初ライブへの準備はしていった。 
そして、2004年8月22日。20000volt 
初めてのライブは興奮と緊張。どちらかというと興奮の方が上回っていたと思う。すごく楽しかった。後になって初ライブの映像を見てみるとちょっと笑ってしまうような出来だった。 
また、この時期になってくると周りはどんどん就職先が内定していき、そのことで親ともぶつかった。そして泣かれた。 
結局4年の冬に親と正面からぶつかって音楽をやる意思を伝えて、それでも一筋縄ではいかず…父親が出した条件は「3ヶ月間ベースのレッスンに通って基礎からベースをやり直すこと」 
父親もギターをやっていたし、また誰よりも自分の事を間近で見てきた人物だから、自分の怠け癖やいくら練習していると口で言っても、その現実は知っていた訳だし。 
すべて見透かされているようで、それに対して何も反論できなくて、それがすごく悔しくて人生で初めての悔し涙を流した。布団にくるまって号泣した。 

それでもやはり後でうだうだ言って後悔する糞ったれにはなりたくなかったから熱意をぶつけて、何とかバンドをやることを承諾してもらった。あれだけ親と向き合ったのは人生で初めてだった。 

そして気づけばあの時、あれほどまでに夢を膨らませていたキャンパスライフが終わろうとしていた。勿論、後悔なんてこれっぽっちもないくらい充実した『濃い』『恋い』4年間だった。 

卒業式の日は友達と別れたくなくて号泣した。周りはひいてたな(笑) 
卒業式の次の日、起きたら鼻血がでてた(笑) 


『恋い』4年間についてはまた別章で書きたいと思います。 

高校に入学すると部活には入らず友達もなかなか出来ず、辛い、楽しくない時間が毎日流れていった。 
そんな中、唯一の楽しみが1年の7月30日から始めたベースである。 
友達の影響で始めたベース。 
始めた当初は弦を押さえる左手は人差し指しか使わないというすごい弾き方をしていた。初めて完コピした曲がGLAYの『BELOVED』 
それから当流行っていたビジュアル系をコピーしていき、『GIGS』を愛読書としていた。 
2年の頃か、友達に教えてもらった『みかんのうた』 
この曲をきっかけでへヴィメタルにハマってゆく。 
sex MACHINEGUNSから始まりジャーマンメタルやLAメタル、スラッシュメタルなど色々聴き漁る。 
音楽に浸かっている傍ら学校での生活はあまりパッとせず友達と呼べる人は数人しか出来なかった。 

2年の冬になると大学受験に備え予備校に通う。 
が、模試などでは散々な結果で、受験間近の模試でも志望校はE判定。 
スベリ止めですらC判定。危機感を感じなければいけないこの現実を逃避するかのように家ではひたすらメタルを聴いてはベースをかき鳴らす日々が続いていた。 
もちろん、勉強もしていた。夏休みには10数時間予備校に閉じこもって勉強したこともあった。 
結果、第一志望の大学は落ちたものの第二志望は合格!!♪ 
来年からは夢のキャンパスライフ~と浮かれながら高校生活に幕を下ろす。 

また、この3年間好きな人が一人も出来ず、「今日女子と何回話した」と片手で数えることができるほど女性関係はまっさらだった。少し悲しい。ってかすごく悲しい。 
2月4日。 
横浜に産声を上げる。 

保育園時代は給食が食べられずしばしば先生に怒られ卒園。 

小学生に入学したが3年までは平凡な時間を過ごす。 
4年になると空手を習い始める。 
何となく始めた空手だったのでこれと言った実績をあげるのはまだ先の事。 

中学生になるとスラムダンクの影響でバスケ部に入部。 
想像を絶する練習量と空手の練習を両立するには当時の自分には厳しい試練だった。 
やがて部活がサボりがちになり、遂には顧問の先生からは、 
「あと1回休んだら退部だぞ!」 
と退部宣告をされる。 
それからは真面目に部活に出るようになり2年の夏には準レギュラー入りを果たす。 
たまにスタメンで試合にでる。 
一方、空手では初段を取る為、他の生徒とは別練習が始まる。 
その結果、中学2年の6月に無事初段を取得。 
そして3年の9月には組手で神奈川県3位という功績を収める。 
これに満足したため高校受験を理由に空手をやめる。 
このように波瀾万丈な3年間が過ぎていった。 
ちなみに3年間で骨折した回数が4回。炭酸の飲みすぎだ!とバスケ部の顧問の先生から怒られた。