駆込寺 常境寺ブログ -3ページ目

稲荷明神

今の時期、食欲の秋、里の幸、山の幸、実りの秋。

そして収穫祭。

一年の実りの収穫といえば代表は稲。

というので、古くから稲の収穫を祝って新嘗祭が行われてきて、皇室や寺社ではいまでも新嘗祭は行われています。

かつて、新嘗祭は11月23日に行われ、戦前までは国民の休日だったのだとか。

現在は勤労感謝の日となって休日に。

日蓮宗では、今の時期は日蓮宗寺院にとって年中行事の中でも最大にして最重要行事・お会式(宗祖涅槃会)があり、田畑などの収穫物が奉納されて、収穫祭も兼ねているところも多々。

ですが、稲は稲として稲荷を祭り収穫祭を祝うところも。

というので、稲荷明神の幣束。

これは、神道系・修験系の幣束。



これは稲を背負ったというか、担いでいる姿にも思えます。

日蓮宗では現在、稲荷明神の幣束の相伝は・・・・・、かつての身延流での幣束がこちら。




この二つの幣束、実は同じ切り図で一方が切り図を反転させたものとなっているのです。

 

 

 

 

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観月会ー中秋の名月

10月4日は中秋の名月。

夜空に煌々と輝く月は、本当に美しく神々しいですね。


神社仏閣では、観月会を催すところもあります。

 

 



団子15個に、季節の野菜や果物を供物として。

幣束は月天子。基本は白紙ですが、月天ということで黄色の紙で。

 



すすきは、トゲのあるところから魔除け。

観月が終わると、左・右・左と振ってお祓い、清めに用います。



月といえば、古来うさぎがいると考えられてきました。

これは中国の説話からかと思ったのですが、

どうもインドの古い説話によるようです。

仏典にも、なぜ月にうさぎがいるのか、という説話があります。

それによると、うさぎが帝釈天に身を犠牲にして供養した功徳だと説かれています。

この話は『今昔物語』にも載せられています。

仏画では、月天が三日月にうさぎを乗せた器を持つ姿で描かれています。



 

 

 

 

 

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合掌は法華経

冠山檀林で能化を務めた学僧・英智日宣は甲州で神職三十名と問答をしたことがあります。

その記録に神道が神前で拍手するのにたいして、仏教の合掌の意味を次のように述べている。

法華経は八巻二十八品からなります。

合掌したとき、両親指は釈迦如来・多宝如来を表し、他の指は八巻あらわす。
両手の十指を合せるのは十界具足を表わすとしています。
手の指にはそれぞれ節があり、都合二八節があります。
右手の十四節は迹門十四品、左手の十四節は本門十四品を表わす。両手を合わせれば陰陽合体本迹不二の印像であるから、手を打たず、一心合掌して南無妙法蓮華経と唱えるのである。

 

なるほど~。

 

 

 

 

 

 

 

 

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狐火

まだまだ暑い日が続きます。

東京・北区の王子稲荷社は江戸の昔から狐火で知られ、

浮世絵にも描かれています。

この王子稲荷社での狐火は暮れに起こるのだそうで、

いまでもイベントというか祭りが行われているそうです。


しかし、この狐火は全国各地でも知られ、

その伝承では夏の暑いさかりの日に見られるのだとか。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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墓参

 

 

盆棚

台に菰を敷き、ご先祖様の位牌。

 

季節の供物

 

早くお帰りください、きゅうりの馬。

 

そして霊界へのお戻りには、

 

ゆ~っくりと、茄子の牛で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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お盆

 

 

 

 

 

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無縁

「お、お先に失礼します」

 

「失礼します」

 

「みんな、帰っていくねえ」

 

「ご供養受けられていいねえ」

 

 

 

「おれたちには帰るところ、ないしね」

 

「私たちにはお上人さんの読経だけが、救いだわね」

 

「ホンに、ありがたいこってす」

 

 

 

 

 

修正

 

 

 

 

 

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月下竹林、骸骨が行く

 

 

 

江戸時代は、百鬼夜行、魑魅魍魎などがいろいろ描かれています。

よく知られる絵に、葛飾北斎の骸骨の絵があります。

それに基づいたものなのか、作者不詳の月下竹林骸骨之図というのがあります。

今回の絵は、それらを下に作成してみました。

 

 

 

北斎 骸骨図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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山伏の見た日蓮宗

山伏の見た日蓮宗


昨日、山伏の記録のことを書きました。

この山伏・泉光院が全国巡拝の旅に出た主な目的は、全国の山岳修験の霊山、

ことに九峰()を巡拝することであった。

その記録は「日本九峰修行旅日記」と題して、帰国後、支配寺院の京都・聖護院へ提出している。

原文は三一書房の『日本庶民生活資料集成』第二巻に収められており、

現代語訳では、完訳ではありませんが

石川英輔『泉光院江戸旅日記』として、講談社やちくま書房から出版されている。
また、民俗学の見地からは、未来社から宮本常一『野田泉光院』として出版されている。

この日記はまさに民俗学の宝庫であり、歴史資料としては貴重な資料となっている。
宗教のみならず、庶民の食や住居、土地土地の風習、などとても面白い。

さて、旅に出た泉光院は街道は通らず、山里の中を、時には山を越えて、

村々を托鉢・配札しながら旅をしている。

泊まりは民家。

 

当時は、全国を巡る修行者を廻国行者と呼び、

「あなたたちのような方からは一銭もいただくわけには行かない」

というのが一般的な考えであり、泉光院も無償で泊めてもらっている。

今で言えば無償の民泊か。


当時は、開国行者も多かったようで、村々には廻国者を泊める善根宿というのがあった。

決まった家が担当したり、家々での持ちまわりであったり、ない場合は、庄屋が紹介したりした。

その泉光院は、帰路に岡山を過ぎて、日本に恐ろしきもの三つ有り、として、次のように述べている。

「日本国中恐ろしきものは山中にては山犬(おおかみ)、芝原にてはマムシ、村里にては日蓮宗と、

この三つは可恐可恐」

また身延に参詣した折には「甚だ殊勝なれど、しかりながら偏見宗、甚だ残念なり」と記している。


彼が恐ろしきものとしているのには、理由がある。

それは、日蓮宗独特の不受不施義である。

これは法華の信者以外の者には施しはせず、受けもしない、というものである

。彼は夕になって法華の村にたどり着いたとき、

どこの家々からも宿泊を拒否されている。そのため、旅の途中、

法華の村だとわかると急ぎ足で通り過ぎたり、

村を避けて回り道をして次の村へとむかっている。

彼が、岡山を過ぎて、このような感想を述べたのは、

岡山が不受不施派の拠点でもあったからだろうし、随分と苦労したのだろう。
寺でも、日蓮宗の寺へ詣で、納経(堂前での読経)してから御朱印を願い出て

、ここでは法華の千か寺参り以外は行っていないと拒否されている。

その彼が、一度だけ素性を偽って泊まったことがある。
信州から甲府へ入り、身延へ向かう途中で夜になった。村は法華の村である。

そこで彼は「御影供(お会式)で身延へ向かう法華の行者」だと名乗っている。

また、一度だけ法華の村で難渋している泉光院を見かねて、声をかけて泊めた家があった。

泉光院はお礼の意味から仏壇で読経しようと灯明に火を付けようとすると、

家人がそれを止めて、そのようなことは家人がやるので、と断った。

 

宗義不受不施と言いながらも困った人への人情もつよいけれども、

仏事となればやはり法華の家。他宗の者にやらせるわけには行かなかったのだろう。


法華の信者・・・・・強信である。









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