またまた残念
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大沢元監督死去:「喝」もう聞けない…「親分」悼む声次々
プロ野球ロッテ、日本ハムで監督などを務めた大沢啓二(本名・昭=あきら)さんが7日、胆のうがんのため、78歳で亡くなった。
神奈川県藤沢市出身。立大から南海に入団し、好守の外野手として活躍した。監督としては81年に日本ハムをリーグ優勝に導いた。「べらんめえ」口調の歯にきぬ着せぬ発言で知られ、テレビ・ラジオの解説やコメンテーターとしても人気を集めた。一方で日本プロ野球OBクラブの理事長を務め、マスターズリーグの設立にも尽力した。プロ野球界の「親分」の訃報(ふほう)に、球界から悼む声が相次いだ。
長く監督を務めた日本ハムでは、7日に宮崎で行われたフェニックスリーグの試合で半旗を掲げ、選手たちは喪章をつけてプレーした。【安田光高】
〇…日本ハムの大社啓二オーナーは7日、札幌市内で記者会見し、「ファイターズには特別な方。何ものにも代え難く残念」と、大沢さんの死を悼んだ。思い出について聞かれると、「(05年に亡くなった)前オーナー(の大社義規氏)がキャンプでよく大沢さんと火鉢を囲んで野球の話をしていた。天国でも前オーナーと野球談議をしていただければ……」と話した。最後に会ったのは夏前。「OB会では『チャンスがあったらOBを監督にしてやってくれ』といつもおっしゃっていた。ファイターズそのものの人だった」と振り返った。
◇評伝…勝負師の真骨頂「小指事件」
大沢監督といえば「小指の思い出」だ。
1982年のパ・リーグ・プレーオフ。前期優勝の広岡・西武と後期優勝の大沢・日本ハムの対戦だった。就任1年目の広岡達朗監督は選手の体調管理を重視し、「肉は食べるな。野菜を食べなさい」と選手を指導。これには親会社が食肉企業の大沢監督、黙っていない。「菜っ葉を食って勝てるならヤギさんチームが優勝だ」。舌戦を展開した両雄がリーグを盛り上げた。
プレーオフの1カ月前、日本ハムをアクシデントが襲う。そのシーズン20勝4敗、西武戦では6勝1敗だったエース・工藤幹夫が右手小指を骨折、プレーオフには出場できないというのだ。右手を包帯で巻き、練習は見ているだけの工藤。大沢監督も「骨をくっつけるボンドはないのか」と報道陣に悲痛な顔を見せた。
ところが、迎えた第1戦、日本ハムは投げられないはずの工藤が先発し、七回途中まで西武打線を封じ、切り札・江夏豊につなぐ勝ちパターンに持ち込んだ。味方もだます大芝居。江夏が崩れて作戦は実を結ばなかったが、「勝負師」大沢監督ならではの一世一代の大芝居でもあった。
球団担当記者を大事にしてくれる監督だった。大沢さんを囲むたび、「小指事件」で話が盛り上がった。
最後にお会いしたのは今年8月の都市対抗開幕日。立大時代の同級生である故・古田昌幸さんの野球殿堂入りセレモニーだった。スーツがぶかぶかに見えるほどやせたのが気になったが、「古田は大のあっぱれだ」。親友をたたえる声には張りがあった。
「親分」が似合う昭和最後の勝負師は、最後まで背筋を伸ばし、「あばよ」と鼻歌が聞こえてきそうな旅立ちだった。【中島章隆】
毎日新聞 2010年10月7日 18時51分(最終更新 10月7日 19時06分)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日曜日のサンデーモーニングに出演してなかったからさ~あれって思ってたんだよね。
身体が悪かったんだ。
驚きました。
もう「親分」のあっぱれは聞けないのだね。
グランドで審判と喧嘩してた姿を思い出します。よく退場させられてましたね。
遂に人生からも退場ですね。
寂しいですが、あの雄姿は忘れませんよ。
ご冥福をお祈りいたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大沢元監督死去:「喝」もう聞けない…「親分」悼む声次々
プロ野球ロッテ、日本ハムで監督などを務めた大沢啓二(本名・昭=あきら)さんが7日、胆のうがんのため、78歳で亡くなった。
神奈川県藤沢市出身。立大から南海に入団し、好守の外野手として活躍した。監督としては81年に日本ハムをリーグ優勝に導いた。「べらんめえ」口調の歯にきぬ着せぬ発言で知られ、テレビ・ラジオの解説やコメンテーターとしても人気を集めた。一方で日本プロ野球OBクラブの理事長を務め、マスターズリーグの設立にも尽力した。プロ野球界の「親分」の訃報(ふほう)に、球界から悼む声が相次いだ。
長く監督を務めた日本ハムでは、7日に宮崎で行われたフェニックスリーグの試合で半旗を掲げ、選手たちは喪章をつけてプレーした。【安田光高】
〇…日本ハムの大社啓二オーナーは7日、札幌市内で記者会見し、「ファイターズには特別な方。何ものにも代え難く残念」と、大沢さんの死を悼んだ。思い出について聞かれると、「(05年に亡くなった)前オーナー(の大社義規氏)がキャンプでよく大沢さんと火鉢を囲んで野球の話をしていた。天国でも前オーナーと野球談議をしていただければ……」と話した。最後に会ったのは夏前。「OB会では『チャンスがあったらOBを監督にしてやってくれ』といつもおっしゃっていた。ファイターズそのものの人だった」と振り返った。
◇評伝…勝負師の真骨頂「小指事件」
大沢監督といえば「小指の思い出」だ。
1982年のパ・リーグ・プレーオフ。前期優勝の広岡・西武と後期優勝の大沢・日本ハムの対戦だった。就任1年目の広岡達朗監督は選手の体調管理を重視し、「肉は食べるな。野菜を食べなさい」と選手を指導。これには親会社が食肉企業の大沢監督、黙っていない。「菜っ葉を食って勝てるならヤギさんチームが優勝だ」。舌戦を展開した両雄がリーグを盛り上げた。
プレーオフの1カ月前、日本ハムをアクシデントが襲う。そのシーズン20勝4敗、西武戦では6勝1敗だったエース・工藤幹夫が右手小指を骨折、プレーオフには出場できないというのだ。右手を包帯で巻き、練習は見ているだけの工藤。大沢監督も「骨をくっつけるボンドはないのか」と報道陣に悲痛な顔を見せた。
ところが、迎えた第1戦、日本ハムは投げられないはずの工藤が先発し、七回途中まで西武打線を封じ、切り札・江夏豊につなぐ勝ちパターンに持ち込んだ。味方もだます大芝居。江夏が崩れて作戦は実を結ばなかったが、「勝負師」大沢監督ならではの一世一代の大芝居でもあった。
球団担当記者を大事にしてくれる監督だった。大沢さんを囲むたび、「小指事件」で話が盛り上がった。
最後にお会いしたのは今年8月の都市対抗開幕日。立大時代の同級生である故・古田昌幸さんの野球殿堂入りセレモニーだった。スーツがぶかぶかに見えるほどやせたのが気になったが、「古田は大のあっぱれだ」。親友をたたえる声には張りがあった。
「親分」が似合う昭和最後の勝負師は、最後まで背筋を伸ばし、「あばよ」と鼻歌が聞こえてきそうな旅立ちだった。【中島章隆】
毎日新聞 2010年10月7日 18時51分(最終更新 10月7日 19時06分)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日曜日のサンデーモーニングに出演してなかったからさ~あれって思ってたんだよね。
身体が悪かったんだ。
驚きました。
もう「親分」のあっぱれは聞けないのだね。
グランドで審判と喧嘩してた姿を思い出します。よく退場させられてましたね。
遂に人生からも退場ですね。
寂しいですが、あの雄姿は忘れませんよ。
ご冥福をお祈りいたします。