堀内伝右衛門 | 情届士洋山(じょうかいしようざん)の日記 アンチエイジング、ガーデニング、時々人情話

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情届士洋山は第二の人生名。「世のため人のため」「人様に喜んでいただく」がモットー。
バラの育成、浪曲の口演、トイプードル・ソラの心、etc。

以前のブログのリンクは、メッセージボードにあります。

 

「これは重ねて相すまぬ。して、何人の墓参りなるや」

 

「浅野のけれえの墓参りに行ったんだよ」

 

「何、何と申す。赤穂浪士の墓参り。赤穂浪士が、赤穂浪士が、何とかいたしたか」

 

「何とか致したかあー。おめえ何にも知らねえのかよ。おいっ。知らなければ言って聞かしてやろうな、えーっ。去年の暮れの14日。赤穂浪士が、四十七人で、本所松坂町、吉良の屋敷に討ち入りをして、見事に吉良上野介の首を討って、高輪泉岳寺に引き上げたんだよ。」

 

「何っ!赤穂浪士が四十七人で、吉良様のお屋敷。して、して、して、その中に、その中に、大石内蔵助あるや」

 

「何でえ、なんだいそのあるやってのは、あるやにもねえやにも、おめえ、その大石様が一一番の親分じゃねえかよ!」

 

「何っ!大石殿が、大将となっ。・・・う、う、う、うーーーん。さてはーーーっ」

 

「おい、おい。おい。おい大丈夫か、おめえ。お前さん、芝居の見すぎじゃあねえのか。えっ、ふん、何を言ってやがるんだい。全く気持ちの悪い野郎じゃあねえか。おい、いいか、俺達はな、細川様のお屋敷に出入りをしている大工、こいつは左官だ、こいつは石屋、植木屋、そら、みんな職人ばっかりや。細川様のお屋敷には、大石様を始めとして、十七人お預けになった。殿様が大石様の話し相手として付けておいた、堀内伝右衛門という人を呼んで、浅野の浪士は侍の鑑、大切にしてやれ、労わってやれとのお言葉。ほんと、大石様も偉けりゃ、殿様も偉えや。おう、だけどなお侍。おりゃ、その堀内の旦那様から聞いた話の中で、一つだけ、どーーしても癪に触ってならねえことがあるんだ。おい、ほら。

おいっ、何ていったけ、うん、うん、うん、ほら、おめえ達も、聞いたじゃねえか、ほら一緒になって聞いたじゃねえか。」

 

「なにが?」

 

「何がって、ほら、ほらー、京都の四条畷で大石様に会ったっていう侍よ」

 

「うーん、京都の四条? 誰!」

 

「なんだ、情けねえなあ、忘れちまったのかよ。しょうがねえ。ほら、なんつったっけ、ほら、たしかに、あー薩摩の侍で、名前がなんでも危ねえ名前なんだ。あぶねえ、えっ、あっ、あっ、あぶねえって言えばなんだ、あぶねえってのは」

 

「あぶねえっ、あぶねえたっておめえ、そうだなあ、あぶねえものは、このー、爆弾」

 

「そうそうそう。ばくっ。馬鹿野郎。そんな名前があるかっ。そうじゃなくて、あぶねえことを何とか言うじゃあねえか。あぶねえから気をつけろ。あそこはあぶねえ。あそこは、えー、いっ。あっ、危険、危険、うん危険。喜剣ていう野郎が、大石様に仇打つ心があるのかねえのかと尋ねた。ところが、ここじゃ話ができません。まーまー、こっちにいらっしゃい。お茶屋の奥座敷に連れてって、酒を飲まそうとしたら、その野郎がまた強情で、酒を飲まなかった。仇打つ心がねえと言った時に、拳骨を固めやがって、大石様の横っ面を嫌というほど殴ったっていうじゃねえか。えーっ、その侍の手は、今頃曲がってんだろうよ。おうっ、それだけじゃねえ。まだまだ癪に障ることがある。小鉢に盛ってきたタコを、足で挟んで、『犬侍これを喰らえー』って、足で挟んだまま、大石様の鼻先にびゃーっと、突き付けた。どころがどうでえ、えーーっ、大石様が粋人で、いうことが嬉しいじゃねえか。『手を出して、足をいただくタコ肴』て、どうでえおい、お前にはこんな気の利いたことは言えるめえ。世の中の人は、馬鹿で利口の真似をする。大石様はそうじゃあねえんだ。利口で馬鹿の真似をした。あーあっ、まあ、いや、どうも、あれぐれえ、えれえ人は、世の中に二人といねえだろう。おう、おめえもさむれえならばなあ、これから泉岳寺に行って、大石様の墓所の土でも貰って、煎じて飲みやがれってんだ」

 

 

 

 

 

 

細川家では、お預け人が到着した時には、殿様自らが出迎えたという

さすが薩摩を抑えるために熊本を幕府から与えられた武人派の殿様

 

 

 

5月27日(月) bs101 英雄たちの選択 赤穂浪士最後の49日

 

 

 

この番組が、詳しく教えてくれた

 

 

 

犯罪人というよりは、武士の鑑との思いが前面に出ていた対応

 

 

 

だから、殿直々に堀内伝右衛門を世話役として指名した

 

 

 

ただ、家老は幕府との軋轢を心配し、堀内を呼んでくぎを刺している

 

 

 

 

「この度の顛末について、お預け人と話すことは、固く無用である」

 

 

 

幕府でさえ、浪士処罰を決めるのに49日もかかったのだから・・・

 

 

 

 

お預け人を処遇する各藩の対応にも大きな差があった

 

 

 

 

江戸の町民が、落書にてささやいていた言葉

 

 

 

 

 

細川水の流れは清けれど、

 

 ただ大ぞ濁れる」

 

 

 

細川家、水野家は評判がよく

 

毛利家(甲斐守)と松平家(隠岐守)は扱いがひどかった

 

 

 

堀内は殿様の意と、家老の意との、難しい立場に置かれた

 

 

 

最初は、必要最小限の言葉での対応であったが、

 

 

 

 

赤穂浪士の人となりに触れ

 

 

 

胸襟を開いて預かり人と向かい合い

 

 

 

時には酒も酌み交わし

 

 

 

 

彼らのことを正確に後世に伝えようという気持ちになったらしい

 

 

 

 

彼は、「義士物語」という、分厚い覚書をのこしている

 

 

 

これは、子孫や志ある人々に見せられ、

写本として広く世に広まって行ったという

 

 

 

 

 

殿から与えられた世話役という役割の遥かに超えた

 

 

 

 

200%以上の働きをしている

 

 

 

 

17人それぞれから、辞世の言葉を聞いて、それを書き残している

 

 

 

 

ある者には、家族にどうしても伝えたいことを、書かせて、

それを家族のもとに届けさせている

もし幕府の手に7それが陥った場合に備えて、

これは殿のあずかり知らぬことで、

自分が勝手にやったこととの文書も添えていたそうだ

 

 

 

 

また、100石取りの武士ながら、

殿様から、知行地を与えられという、格別の思し召しを賜った

 

 

 

その知行地にて

87歳でこの世を去るまで

赤穂浪士の遺髪を祀って、最後の日まで拝んでいたという

 

 

 

まことに立派な実在の人物であった

 

 

 

大石内蔵助にして、堀内伝右衛門あり

 

 

 

人の縁は全くもって奇遇

 

 

 

赤穂浪士側からのことの顛末をつたえる正確な記録は、他にはない

 

 

 

 

まことに以って凄いことをしたものだ

 

 

 

 

 

 

冒頭の町人台詞は、

國本武春浪曲「村上喜剣」の一節

 

 

 

堀内の旦那から聞いた話とあるが・・・

 

 

 

伝右衛門が出入りの職人に、

 

 

 

 

切腹後もベラベラ喋るはずがない

 

 

 

 

赤穂浪士に関しては、諸説紛分

 

 

 

 

その人気に、尾ひれがついて、いろいろ語り継がれている

 

 

 

 

村上喜剣が実在の人物であるとの記録は、

まだ自分の目に触れていない

 

 

 

 

おそらく・・・

 

 

 

 

 

でも、将来自分が「村上喜剣」を口演する際は、

 

 

 

 

「堀内の旦那」という短い言葉の中に、

 

 

 

 

素晴らしい人物の存在があることが分かっただけに

 

 

 

 

きっと語りに力が入るであろう