兵藤の名言と言えば「誠意とはそれほど重いのだ…!」ですけど、前回の謝罪の続きですけど、仕事上の謝罪はあくまで儀式であって深刻な場合を除いては心の底から沈痛しどんな要求も受け入れるというものではない。「私はあなたの被った不利益を理解していてあなたをぞんざいに扱うつもりはありません」ということを示す挨拶のようなものである。挨拶とは何か。おはようやこんにちはなどは何のために日常的に利用されているのか。挨拶とは「私はあなたを認識していて無視をしたり攻撃をしたりするつもりはありません」を極めて簡潔かつ効率的に示し社会生活の安全性を相互に確認する重要な儀式だと俺は思っていて、その性質上関係性が浅ければ浅いほど重要になる。人としてだとか最低限の礼儀だとか、解像度の低いふわっとした表現で挨拶を捉えるから「挨拶って意味なくね…?」と思う人が中には出てくるが、全く知らない人か、あるいは自分を認識しているかどうか全然分からない人ばかりに囲まれているよりも、顔ぐらいは自分のことを緩やかに知っていて短い言葉(おはよう)を交わし合った経験があって、もし何か話しかける必要が出てきた時に「はじめまして」から始めなくていい人ばかりに囲まれていた方が精神的に楽だと思わない?前者はキツくない?と思考実験をしてみれば、ほとんどの人は挨拶の有用性に納得することだろう。挨拶とは無関係から有関係への最初のでかいハードルを極めて効率的に突破してくれる超効率のいいコミュニケーションで、一定期間身を置く場所においてはやらない手はない。あ、対人恐怖症を患っているとか特別なケースは除きますよ。とにかく、挨拶は関係性がない・浅い場合ほど効率がよくて、親密になれば多少の割愛は関係性によってはありになる。「おはようございます」じゃなくて「っす」でよいこともあるし、手を上げるだけでよいこともあるし、割愛できるのが逆説的に親密さの証左(挨拶の効率が低下して割愛が有効な選択肢に入るほどに親密)になることもある。まこれはいいか。なので挨拶は全員圧倒的に得だから基本的に全員が参加する儀式で、それをあえてやらないのであればそれなりの理由を想像されることになる。自分に敵意があるのかとか、自分と最低限の友好関係を確認するよりも違う何かを優先しているのかとか、そういう想像をされることになる。いや、だからと言って原理的には挨拶をするのも全ての人間に無視を決め込むのも自由ですよ。国際社会の場で相手国から握手を求められた要人が握手を拒否する「自由」だってある。もしかしたら多汗症で手汗が恥ずかしかっただけで他意はないのかもしれない。そのような自由や事情が個別独立それぞれに存在する(かもしれない)ことと同時に、相手もその対応の意味について想像を巡らせ、解釈し、必要だと考えれば自衛や対立をする自由がある。めちゃくちゃ長くなったけど先日の「謝罪」も広義にはそういうことで、別に本当に誠心誠意の謝意で涙を流し沈痛の面持ちで懺悔の言葉を並べろと要求しているわけじゃない。「こちら側の落ち度であなたに不利益を与えたのを理解していて、それは(自分は直接関与していないとしても)よくないことだと思っているよ、だから二次被害が起きないよう普段よりも注意するね」を超効率的に共通言語として便利にパッケージングしたのが「申し訳ありません」なだけであって、不利益を被っている相手に対してその程度のコストすら支払わないってことはよォ…となるっつー話です。個人間トラブルのガチ謝罪は全然毛色が違います。これについては儀式などではなく、兵藤会長が飛び出てきます。御多分に漏れず疲れたので今日はここまで。