債券を債権と誤って記載する者は債券に明るくない、という説を以前見たことがあって、興味深い。ちなみに俺は以前債券を債権と書いた可能性があるし債権を債券と書いた可能性もある、なぜなら債券にも債権にも明るくないしその誤字を特筆して意識できていた記憶もないので。ま俺の話はよいとして、その分野に明るい人間であれば絶対に間違えない箇所、というのはありますよね。絶対に知っている、とかもある。そこ間違えたり知らなかったりするのは偶然とかうっかりとかでは片付けられない場合がある。今俺は、自身が詳しいことについて間違えてはならないと主張したいわけでもなければ、何かひとつでも間違えると途端に他者からの信頼を損なうと言いたいわけでもなく、その分野をあたかも熟知しているかのように振る舞っている人間から露呈する、ある特定の誤りや無知が根拠となってほとんど確定的にその人物がモグリであると見破れる場面が限定的に存在することの有用性について、興味深いと感じているのである。
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何かを書きたい。しばしば胸に去来しているのは兵藤会長の「命はもっと粗末に扱わねばいかん」である。これは何度か書いているはずだ。大切に扱おうとすればするほど濁り澱んでいく。陰陽っすね〜〜〜。雑にリスクを取りに行くことや、投げやりになって身を投じること、そういった不正解から開かれる道もある。いや別に俺の人生のメタファーとしてこれを語っているわけではなくて、一般論として、こう思う。あと「不正解からしか開かれない道もある」って本当は書きたかったんだけど、「しか」の濫用をこの世で最も憂う立場として、会長として、意図的に使用を避けてしまった。ああ、また呪詛の念になるが、割と厳格なエピソードとしての謝意を取り上げるニュースのインターネット記事で「感謝でしかない」との見出しがあって、激怒しましたね。頭を掻き毟り、顔を真っ赤にして、唾を四方八方に飛ばしながら、この世はいよいよ狂っちまったッッッ!と絶叫しました。はあ。型があるから崩しもあるんですよ。「しかない」を魅力的な崩しだとは一切、微塵も、露ほども、いささかも思いませんけど、無限大数譲って、それが流行しているウィットに富んだ人気の崩しだとして、その一方で対になる型は当然に必要であり、型を担うのはオフィシャルめいたものである。つまり、例えば企業がリリースするニュース記事である。それを、若作りした中年が痛々しく若者言葉を使うかのごとく、なにみだりに崩してんだよ。易々と媚びるんじゃないよ。あるいは媚びているのではなくて、単純に若年層が担当した記事だとか、ジジイのくせに絶望的にバカだとか、IT化によって発信可能な量が増えて速度も求められて紙と違って修正が容易なため校正工数を著しく減らしているとか、単に引きのある表現でアクセスを稼ぎたいとか、色んな可能性はあれこれと想像しますけどね。まあでも生まれてからこういう表現以外に接することなく育ってきた人間は、「そういう言い回しなのかな」となっていくよな。それについては仕方がないと思っている。俺だってかつては不適切だった表現をかつて不適切だったと知らずに不適切でないものとして受け入れ、時代に許されているから大手を振って表現できているものもあるだろう。だからと言ってなんでもかんでも流行り廃りでどんな言い回しも許容されるべきだとは全然思わなくて、言葉は時代とともに変わっていくとかいう印籠でなんでもかんでも全てを収斂させていくべきだとは思っていなくて、少なくとも過渡期においては、いやあそれは正しくないよと小言を言う老害がいるべきだと俺は思う。今日はここまで。
自分の中でなぜなのかをすぐに突き止めることはできないが、心に引っかかりを覚えることの輪郭を紐解いていくのが好きだ。あるいは、すでに結論や是非が直感的に決まっているが、過程の式が分からないもの。あるいは、見いだせた過程の式に欺瞞や誤謬がないかの検証。こういったものを自分の中でゴニョゴニョしたり、知的な知人に見解を聞いてみたり、最近ではなんとAIに壁打ちしたりすることに、俺は結構な時間を投下してきたように思う。今では趣味であり娯楽的要素が強いが、不慣れな10代〜20代前半ぐらいまでは、尊厳にかかわる真剣勝負だった。正しさバトル。二度ほどアイデンティティクライシスのようなものも体験した。今、上級者とまでは言わないが、マシにはなったと思う。自己満足の域を出ることはないが、やってよかった。もしあの蒙昧な10代の頃のままでいたら今頃どのように過ごしていたのだろう?それはそれで今よりも幸福な可能性も当然残るが、まあその線は無視でいいかな。と、思う。この、中途半端に感度があるくらいならいっそ何も分からん方がむしろ幸福なんじゃないか説への反論は今はよいだろう。ふむ。そろそろ寝たいので、冒頭で終わりみたいになってしまうが今日はこんなところで。