ある属性の傾向があることと、その傾向に当てはまらない個体があることは両立する。傾向があるからと言って全ての個体が傾向通りだと見なすのは間違いだし、例外を持ち出して傾向の存在自体を否定するのも間違いである。こんなことは言葉にしてしまえば当たり前田のクラッカーだが事はそう単純でない。ネガティブなものは特に。外部から望ましくない傾向を見ている人間にとっては警戒が生まれ、わざわざ対面して例外を見つけ出すよりもとりあえず遠ざけた方がリスクマネジメントとして適切になり得るし、傾向に当てはまらない例外の身としては同類として取り扱われることへの不利益をどうにかしなければならない。無論、非知的な感情論や憎しみ、主語の拡大、意地の悪い差別や偏見は正当であり公共のものだとする主張があるのであれば退けられて然るべきだが、そういった望ましくないあれこれを除外したとしても、構造的な難しさは残る。東野圭吾『手紙』では経済苦から弟のために空き巣を試みた兄が思いもよらず強盗殺人を犯してしまい、殺人犯の身内として生きる弟の苦悩を描いていたが、あれはキツかったです。映画がマジで最高で何度見ても毎回泣いているんですが、キツい。あ〜でも当初の話題とはちょっと逸れてるか?いや逸れていないか?ふむ。傾向は理解した上で一人一人を個別に見る。言うは易し行うは難し。七三分けのスーツと金髪ピアス全身刺青とでは警戒度は全く違う。スーツが鬼畜で金髪が善人の可能性は残るからといって初動から同列には取り扱えないだろう。当然である。変更できる外見であれば見られたいように変更する余地が個人には残されているが、国籍とか出身とか持病とか性別とか年齢とか、変更できない部分の属性はどうにもできない。そんなもので人間を判断すべきでないと平場ではいくらでも言えるが、ある属性でしばしば見られる望ましくない傾向により深刻な実害を被った人はその属性全体に対する警戒や憎しみや拒絶が増幅する可能性は、あるだろう。残念である。そういうものをホイホイと共有し煽り拡散して燃やすと分断の出来上がりだ。嘆かわしい。社会で生きる身としては、日本人であるとか、男であるとか、俺が選んだわけではないがその属性の責任の一端はまあ、願うとも願わずとも担っていると言ってよい。あー責任は言い過ぎか?社会から見た属性の印象に影響を及ぼすって感じか。個人個人で考えれば無視してよいほどめちゃくちゃ薄いですけどね。ただその集合が社会なんで。最近俯瞰ばっかで主張してねえなあ。昔から記載していることにも通じるが、どうにもならねえと諦めている節がある。悪い癖ですね。