というわけで久しぶりに舞城王太郎の作品を読みました。短編集『畏れ入谷の彼女の柘榴』収録、『畏れ入谷の彼女柘榴』について書いていきます。あらすじは、舞城王太郎の小説を考えるときにあらすじが必要かはともかくなんだけど笑、子持ち夫婦の妻が2人目を妊娠したんだけど最近ファックしていないから夫は妊娠の原因を疑っているけど妻はあんたしかいないがと真面目に怒っていて、そうしたら子供の指から出る光が生命を作る能力があるっぽくてまさかその光で妊娠みたいな相変わらずわけのわからない展開なんだけど、それは伝えたいことをきちんと伝えるためのフィクションだと解釈しています。相変わらず読んでいるとグイグイ引き込まれますね。これは俺が狂信的なファンだからなのかどうか判断ができません。とにかく、ラストの夫婦の口論がすごい。妻は「あんたの子供の親なんだから(自分を)軽んじない方がよい」「親権を争ったら私が勝つ」「浮気ぐらい誰でもするしいっときのことで収めてる人もたくさんいる。その子供だってまともに育つ」「おめでたは無条件にありがたいことだ」と述べる。はあ。絶妙です。多分これ、現代で「分が悪い時の強い立ち回り」なんですよ。理がある部分と現実的な問題や建設性と自分が悪かった部分とを巧妙に混在させて自分の守備力を高めつつ自分の望ましい方向に話を進める攻守一体の論法です。


「私のやったことはおめでたいこと。悪いことをしたわけではないやろ?ほんで、おめでたをどう処理するかは他の家の問題やが。お金を配りました。そのお金でトラブルが生まれたら、お金を配った人のせい?宝くじが当たりました。でもそのお金のせいで強盗に襲われました。宝くじが悪いんか?人に親切にしました。そしたらその相手に甘える気持ちが生まれました。親切が悪いの?」。

随分ポンポンといろんなことを言えるじゃないか。

そう唱えてきたんだろう。

でもそれもまたトボけと誤魔化しと嘘だ。

「最初の話はお金を配った人に責任あるんやで?二番目の話、宝くじはしょうがないな。ほやけど三番目は親切が悪いんや。チヅ、それがわからんのやろう?」「宝くじは自分で買って自分が引き寄せたラッキーや。それが不幸に転じたからって他の誰のせいにもできん。ほやけど誰かが誰かに親切にする、良いことしようとする、優しくするってのは、好き放題にやって良いことでないんやで?どんなことにせよ、そういうときには今チヅが並べた通りのリスクがあるんや。ほやでみんな慎重になるんやで?当たり前や。大人になるまでにそういう加減を憶えて、現実的に問題が起こらないラインを見極めて自分の振る舞いを調整してるんやで?みんなが」


「誰かに良いことや、悪くないことをして悪いことが起こった時、その結果の責は私にあるのか?」の問いに対して「責があるかどうかはともかく、他者に何か影響を与えることにはなんであれリスクがある。だから成長過程で加減を知り、大人は慎重に振る舞いを調整する。その行動単体に非がないことを、慎重さを放棄し好き放題やる免罪符にするな」って切り返しは本当に凄いですね。だって現実の普通の文脈なら「悪気があったわけでもないし落ち度があったわけでもないから結果的に悪いことが起こったけど仕方がないよ」で余裕で通りますからね。だから「悪用」もできるわけですけど。なんというか、「高次」ですよね。

この「大人としてふさわしい振る舞い」は肩書きから独立した一個人に対してであれば強制力がないんですけど、「親」として適切かを考えれば、このような低次の振る舞いを見せるのは「子供にとっては有害」で、「親の資格はない」と主人公である夫は結論しているんですよね。口先だけの建前とムーブの技術を磨くことが強い行動になるような、クソゲーが跋扈する現代に対するアンチテーゼと俺は捉えました。ここからラストに至るまでに書いてあることもとてもいいんですが力尽きたのでここでやめます。